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18 未だ見えない振り出しの在処 「よいしょ……っと。ふう」 割り終わった全ての薪を食堂の脇に並べ終え、身体を起こす。額にうっすらと浮かんだ汗を拭った腕が重たいのは、きっと慣れない斧を振っていた所為だろう。明日には筋肉痛かなあ。運動不足のせいか筋肉の少ない腕を回して、はぐっと手の平を空へと伸ばした。 気が付けば、太陽の位置はずいぶんと高くまで昇っていた。懐に入れておいた腕時計を見ると、まもなく正午というところだった。が薪を割っている間に、すでに食堂のおばちゃんは買い物から戻ってきており、食堂からは芳しい香りが漂っている。きっと、もうすぐお昼ご飯の時間なんだろう。鼻を擽る香りは、お出汁とお醤油とみりん。お腹の底から食欲が沸き立ち、匂いだけでこの料理が美味しいことが伝わってくる。 おばちゃんが帰ってきてからすぐ、が朝の出来事を伝えると、彼女は怒るどころかむしろに「ありがとう、助かったわ」と感謝の言葉を告げた。どうやら、普段は生徒たちの食事の時間を考えて、なかなか気軽に遠くへ買い出しに行けないのだとか。しかも朝と昼は授業の時間の関係で、食堂を手伝ってくれる当番もいないのだそうだ。だから、今日だけとはいえが手伝ってくれてよかった、とおばちゃんがほっこり笑って言ってくれたことが、には勿体ないくらいに思えた。 (おばちゃんも、優しいなぁ) ぼんやりと空を眺めていると、遠くからゴーンと鐘の音が聞こえた。どうやらこの鐘の音は、ヘムヘムが鳴らしているらしい。鐘の音の直前になると、大慌てで駆けていく彼の姿を思い浮かべ、余韻が残る青空を見上げる。きっと、授業の終わりの時間なんだろう。薪割りの道具を元のあった場所に片付け、は勝手口から食堂に声をかけた。 「おばちゃん、薪割り終わりました」 「あら、ありがとう!助かったわ」 「いいえ、私のほうこそお手伝いさせてくださって、ありがとうございました」 正直なところ、本当に手助けになっていたかどうかは不安だった。 お皿洗いはまだしも、薪割りなんて小学校の林間学校以来だったせいか、勝手がわからず初めのうちは、ふらふらと斧に遊ばれてしまったくらいだ。段々と慣れるうちにコツも掴めてはきたけれど、本来はもっとサクサクと進めるべき作業なのだろう。 慌ただしく料理を作り上げるおばちゃんの邪魔にならないように、挨拶だけしてもう一度外へと出る。さて、これからどうしよう。悩んだのも束の間、「おーい」と聞き覚えのある声がの名前を呼んだ。 「ここに居たのか。部屋にいなかったから、探したよ」 「土井、さん」 声のした方へと振り返ったの視界に映ったのは、昨夜顔を合わせたばかりの優しそうな青年の笑顔だった。それから、その一歩後ろに立つ、井枡模様の服を身に纏った、まだ幼さを残した少し目つきの鋭い少年が一人。訝しげな視線で、の方をじっと見つめていた。土井さんの生徒、なのだろうか。身に覚えのある種類の視線に、は無意識のうちに息を詰まらせてしまう。得体のしれない、異分子に向けられる疑惑と不審の感情。は、自分の喉元に再び鋭いものを突きつけられた気がした。この学園に来てからというもの、ずっと優しい人とばかり出逢っていたから、忘れてしまっていたのだ。学園の外で、自分に向けられていた視線のことを。 「土井さん、迎えに来てくださったんですか?」 「ああ、昼時に迎えに行くと約束したからね。よかったら、君の荷を売りに行きがてら、町で昼食を食べないかと思ったんだが」 「あ……すみません。私、こちらのお金を持っていないんです」 「大丈夫、学園長先生から伺っているよ。君はとても遠くから来て、まだこのあたりのことに慣れていないんだったね。昼食くらい、私がご馳走するから、気にしないでくれ」 「土井先生の奢りっすか!?」 「……きり丸、どうしてお前が反応するんだ」 の身体を強張らせる原因となっていた少年の瞳が、半助の言葉に反応して瞬時にキラキラと輝きを宿らせる。同時に、に向けられていた視線が逸らされ、ほっと安堵の息が漏れてしまった。 きり丸、と呼ばれた少年は、半助がわかったわかった、と宥めるように告げると、体全体で踊り出すように喜びを表す。町でご飯を食べることは、この世界ではとても貴重なことなんだろうか。きり丸を知っている人間からすれば見当違いも甚だしいことを考えてしまったは、ここで自分が遠慮してしまえば、少年が喜んでいる外食という機会を奪ってしまうのではないかと思うと、首を横に振ることもできず、困ったように笑いを零すことしかできなかった。 ひとしきり喜びを表現し終えた少年は、くるりともう一度の方を向くと、少しだけ緩めた鋭い目つきでの顔を見上げた。 「あの、挨拶が遅れてごめんなさい。昨日からお邪魔している、です」 「一年は組のきり丸でーす。お姉さん、町に荷を売りに行くんすよね」 「はい…町までの道も、物を売れる場所もわからないので、土井さんにご一緒していただくことになったんです」 「ふーん。物の売り方もわからないなんて、変わってるんすねー」 きり丸の目はとても素直で、心の底からわからない、とに告げていた。けれど、それに対する答えをどうしても見つけることができなくて、そうですね、と肯定の言葉だけを絞り出す。 「ちゃん。きり丸も内職の納品に町に向かうそうだから、一緒に行こうと思っているんだが、構わないかな?」 「は、はい、もちろんです!」 「よかった。それじゃあ、ちゃんの荷物を取りに、客間に行こうか」 「あの、でも、ヘムヘムくんが」 「ヘムヘムなら、先ほどすれ違った時に私が君と町に行くことを伝えておいたから、心配しないでも大丈夫だよ。きり丸、お前も一緒に来て、荷を見せて貰うといい」 「はーい、見せて、も・ら・い・まーす!」 そして、もう一度なぜかキラキラと輝きだしたきり丸の瞳に首を傾げつつ、は二人の背中を追いかけるように歩き出した。 * * * 「これが…君の持っている荷物、なのかい?」 「はい、そうです」 半助に先導され、朝とは異なるずいぶんと短く感じた経路で食堂から客間まで戻ったは、早朝に仕分けたばかりの荷物から、「売るもの」と分類した山を畳の上に広げていた。荷物の中には、装飾品から、式で着る予定だった年代物の振り袖や、下着を抜いたいくつかの衣服、それに秀作が売りものになるだろうと評してくれた硬貨の類が並んでいる。五日間の旅行用にまとめた荷物だったし、日数の大半は式の準備と本番だったので、着替え一式以外の無駄なものはあまり持っておらず、娯楽として鞄に詰めていたのは、数冊の文庫本と筆記用具、それに旅行先で終わらせようと思っていた冬休みの宿題くらいだ。このあたりのものはお金には代えられないだろうから、「売るもの」とは別に分けている。それから、携帯電話と腕時計といった、いくつかの機器類も手元に残すつもりで、彼らの前には見せていない。 それなのに、どうしてこんなに驚いたような顔をされているんだろう。ほぼ一日、この場所で見たり聞いたりした結果から、なりにお金に替えられそうなものを選んだつもりだったのに。がひとつひとつ荷物を並べる最中から、ずっと言葉を失ったように目を丸くしている半助と、口をぽかんと開けたままのきり丸を見て、は無意識に首を傾げていた。 「あの…なにか、おかしなものでも混じっていますか?」 「いや、おかしなものというか……これはすべて、君の持ち物なんだね?」 「はい。旅行に行く前だったので、普段より荷物が多かったんです」 「このあたりの装飾品も、君個人の?」 「えっと、いくつか知り合いに借りているものもありますが、大半は私のものです。あまり、裕福な家庭ではなかったので、私が持っているもの全部詰め込んだ感じなんですけど」 が答えると、恐る恐るといった様子で半助が近くの指輪に手を伸ばした。あの指輪は、数年前の誕生日に、伯父が贈ってくれたものだ。というよりも、が持っている装飾品のほとんどは、着飾ることに興味が薄いを気遣い、伯父と兄が誕生日の度に贈ってくれたものだった。どちらかと言えばは、洋服やアクセサリーにお金をかけるなら、夕食のおかずを一品増やすことを選ぶような性格の持ち主である。それを見かねた二人が、の将来のために、と年にひとつずつ、伯父が出資して兄が選んだものを買ってくれるようになった。 普段は機会もないし、勿体ないと言って、棚の中に仕舞い切りになっていたそれらは、今回の伯父の結婚式で、初めて日の目をみる機会を得ることとなった、はずだった。あの指輪も、の指を飾ることなく、売りに出されるとは思ってもいなかっただろう。 まるで壊れ物を扱うような手つきで指輪に触れた半助は、土台の上の青い宝石をジッと見つめていた。それから、昨日の秀作のように、上下左右、いろいろな角度から指輪を観察し終えると、両手でそっと畳の上に置きなおす。 なぜだろう。確かに石は本物だと聞いているが、そこまで高価なものでもないはずだ。の困惑が伝わったのか、顔をあげた半助は、真剣な表情でに言った。 「結論から言おう。君の持ち物は、町では売ることができないだろう」 「な…っ!ど、どうしてですか?やっぱり、この場所のものとは違うからですか?」 の声は、自分でも驚くくらいに声高で、焦りを帯びたものだった。だって、秀作は言ったのだ。この世界にも、骨董品や芸術品を求める人がいるのだと。そうした人たちが居るのであれば、多少形は違えど装飾品や服の類をお金に替えることは不可能ではないはずだと、は考えていた。 余裕のないの様子を察したのだろう、半助が「最後まで聞いてくれ」と慌てるを掌で制する。 「確かにこうした種類の宝飾品は見たことがないが、そういう意味で売れないといった訳じゃないんだ。……ちゃん、きり丸は町で良く物売りのアルバイトをしている。きり丸、お前の目からみて、この荷に値段をつけるとした、どうする?」 突然、話の矛先がきり丸へと切り替わったのにあわせ、も半助からきり丸へと視点を動かす。先ほどから、きっちりと正座したままの姿勢で、ぽかんとした表情を浮かべ荷物を見詰め続けるきり丸は、そうですね、と震えた声音で告げる。 「俺には…値を付けられません。こんな商品、町の市場じゃあ、扱ったことないっすよ」 「え……?」 「こういう高価なものは、堺とか、大きな都に行かないと、誰も手がでないと思いますよ。……俺も、こんな綺麗な石を見たの、初めてです」 「そういう、ことです。ちゃん、君の持ち物は近くの町で扱うには、高級品すぎるんだ」 ガツンと、頭を殴られたような気がした。 が住んでいた場所の常識からすれば、が持っている装飾品は数万円から高くても十数万程度の品物で、一般人でもまったく手が出ない、という代物ではない。現に裕福とはとても言えないでも、母親の形見や、人から贈られたり、譲り受けたりしたものを集めれば、両指の数くらいは所持しているくらいだ。 けれど、それらの品物さえ、この場所では見慣れない、普通のものではないのだと、彼らは言う。町では売ることすらできない品物なのだと、二人は言った。 (ああ、もう。それなら一体、私はどうしたらいいの) ここが何処かもわからない。兄の居場所も元の場所へ帰る方法も知らないし、ここにいる人たちがどんな風に暮らしているのかも、常識さえも違っていて、知り合いもいない。けれど、自分の持っているものを売ってお金に替えることができるのなら、兄を探すための一歩を踏み出せる気がした。この場所で、歩いていくための道が見いだせた気がしたのに。 つんと、熱の溜まる瞳の奥を意識してしてしまわないよう、少しだけ顎を上げて、は瞬きの数を減らすように必死で目を見開く。まだ、まだ泣く訳にはいかないのだ。再び揺らいでしまった足元に、前を向けるのかどうかもわからないけれど、それでも、とはぎゅっと拳を握る。 無理やりに浮かべた笑顔に、目の前の二人が眉をしかめたことにも気づけないまま、は只管に手の平に爪を立て続けていた。 ( ねえ、どうしたら私は、足を踏み出すことができるのですか? ) |