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16 彼女に関する所見 −おむすび奇譚− 今日も朝から不運だった。正確には、昨夜から続く不運に襲われていた。 三年は組の三反田数馬は、通称不運委員会、正式名称保健委員会に所属する自他共に認める不運な忍たまだ。正直なところ、自分ではあまり認めたくはないのだが、当然のようにクラスメイトに置いて行かれたお風呂からの帰り道、誰かが(といっても誰かは明らかだが)掘った落とし穴にはまった瞬間、思わず「不運だ…」と呟いてしまった。 穴は想像以上に深く、風呂上りでくないを持っていなかった数馬は、脱出するまでに一刻近い時間を要してしまった。土まみれになった身体を清めたかったけれど、こんな時間からお風呂を沸かすわけにもいかず、仕方なく数馬は井戸の水で身体を拭いた。春先とはいえ、その日の夜は風も冷たく、井戸の水はキンキンに冷え切っており、何度もくしゃみが飛びでる。部屋に戻ってすぐに布団に潜ったけれど、身体の冷えはなかなか取れず、眠りにつくまでに随分長い時間がかかった。ようやくうとうとしてきたころ、哀しいことにもう朝だった時には、さすがに数馬も本気で涙が出そうだった。 (今日は、朝から実技の合同授業で裏裏山までマラソンなのに) 寝不足のままでは、途中で体力が底をついてしまうかもしれない。だから、少しでもいいから眠らなくては。そう思って、外が明るくなってからも、必死に瞼を閉じる。 それが、いけなかったのだろう。ようやく温まってきた布団の中で、気が付けは数馬の意識は完全に遠のき、同室のクラスメイトが食事を終えて戻ってくるまでぐっすりと眠ってしまった。 なんで、もっと早く起こしてくれなかったのか、と同室の友人を恨みもしたが、そういえば夢心地に「起きろ」という声を何度も聞いた気がする。つまり、結局のところ自業自得なのだ。大慌てで身支度を整え、食堂に向かいながら、数馬は朝の自分の行動を只管に悔やんだ。 走りながら見上げた太陽の位置から、まもなく授業のはじまる時間であることを知り、焦りが募る。睡眠不足で、朝食抜き。そんな状態でマラソンしたら、本気で倒れる。とにかく、朝ごはんだけでも食べていこうと、必死で食堂へと走る。朝食の時間はすでに過ぎているが、おばちゃんが残ってくれていれば、何か食べるものを用意してくれるだろう。そう考えたのだ。 「おおおおばちゃーーん!!!朝ごはん、残ってませんか!?」 だから数馬は、食堂におばちゃんがいなかったことも、きっといつもの「不運」なのだと考え、がっくり肩を落としたのだった。 * * * 「数馬、こっちこっち」 「ま、間に合った―」 マラソンのスタート地点である集合場所に駆けつけると、個性的な前髪のクラスメイトに手を振って呼びかけられる。ここに来るまでの間に、授業開始の鐘はまだ鳴っていない。どうやら、なんとか間に合ったようだ、と数馬は肩で息をしながら、ほっと安堵の声を漏らした。 「遅かったな、数馬。また落とし穴にでもはまったのか?」 「いいや、今日は寝坊。落とし穴にはまったのは昨晩なんだ」 「結局、落ちたことは落ちたのか…」 そう言って、クラスメイトの藤内は数馬の肩に手を置いて、「うちの先輩が悪い」と申し訳なさそうに苦笑する。確かに数馬をはじめとする保健委員の面々が良く落ちる落とし穴は、藤内が所属する作法委員会の四年生、穴掘り小僧の異名を持つ少年が掘ったものなのだろう。しかし、だからといって彼の落とし穴にみんながみんな引っかかる訳ではない。それに、藤内の先輩が掘ったからといって、藤内に責任があるわけでもないのだ。そもそも、綾部先輩の場合はいくら藤内が止めたところで、ましてや彼の先輩である作法委員長立花仙蔵先輩が禁止したところで、変わらず掘りつづけるのだろう、と数馬は思う。 「いつもひっかかるぼくも、もっと気を付けないといけないから。それより、藤内」 「ん、なんだ?」 「今朝から、食堂に新しく人が入るって聞いてたか?」 「え、食堂?いや、俺は聞いてないけど」 「おーい!数馬、藤内!!」 呼ばれた名前に二人揃って振り返ると、紐を片手に持った同級生が居た。ちなみに、紐の先にはさらに二人の同級生の姿が繋がっている。 「ん、おう。作兵衛!…に、左門と三之助は、相変わらずだな」 「数馬、藤内、おはよう」 「気が付いたら紐が結んであったんだよーこれからマラソンなのに、走りにくいよなあ」 「繋いどかねぇと、お前ら迷子になるだろ!!」 作兵衛の言葉に、当の本人である左門と三之助は「迷子?」とお互いの顔を見合わせハテナ印を飛ばしている。同じ三年ろ組で、二人の保護者のような立ち位置として苦労の絶えない作兵衛には悪いが、数馬と藤内は二人の反応に相変わらずだなあ、と乾いた笑いを浮かべてしまった。今日のマラソンも、作兵衛にとっては大変な一大行事になってしまうことだろう。 「今日のマラソン、裏裏山までだって?朝一から体力使うなー」 「だが、午後は休みだ!マラソンの後の昼飯は余計に旨いぞ」 「あ、そうだ。作兵衛たちは、今朝の食堂で女の子に合わなかった?」 「女の子?」 数馬の問いに同級生たちはそろって首を傾げた。詳しく聞けば、朝食の時間帯にはいつも通り食堂のおばちゃんしかいなかったらしい。 では、いったい彼女は誰だったんだろう。数馬は先ほど食堂で逢ったばかりの少女のことを思い浮かべる。歳は自分と大して変わらないか、少し上くらいだろう。食堂に駆けこんだ数馬を見た彼女は、初め困ったような笑顔を浮かべていた。食堂の作りに慣れていないのか、項垂れる数馬を前に周囲をきょろきょろとして、ヘムヘムに何かを頼んでいたようだった。盗み見た後姿は全体的に薄っぺたくて、捲り上げた小袖から覗く腕は、握ったらすぐに折れてしまいそうなくらいに細かった。とりあえず、くのたまではなさそうだ。筋肉のない身体つきを見て、数馬はそう判断する。 新しく食堂で働くことになった人かな。数馬におむすびを作ってくれるといって、お釜からご飯をよそい、お米を握る手際は非常に手馴れているように見えた。 出来上がった三つのおむすびも、適度な塩加減と口に入れた瞬間に解れる握り具合がちょうど良く、とても美味しかった。そう、素直に数馬が伝えた途端―――――彼女は、微笑った。 (あの子…嬉しそうだったな) ただ、一度小さく微笑んだだけなのに、どうしてあんなに頭に残るのだろう。今までに感じたことのない感情に、数馬は胸のあたりを押さえる。 彼女の微笑みは、満面のものでもなくて、ほんとうに、微かに浮かべられたものだった。それなのに、数馬には彼女の微笑みが「倖せ」という感情をすべて詰め込んだもののように思えて、自分の感情を隠すように、只管におむすびを食べることしかできなかった。 「ふーん、食堂に女の子、ねえ」 「朝飯の時にはいなかったな。新しい事務員の人でも来たんじゃねぇの?」 「いや……そういえば、上級生の先輩たちが変な格好の女の子の話をしていたような気がするな」 「変な格好?」 「ああ、学園長先生とヘムヘムが連れてきたらしいんだ。なんでも…」 続けられるはずだった藤内の言葉に重なるように、ゴーンと授業開始の合図が鳴り響く。 そういえば、彼女のそばには、ずっとヘムヘムが付いていた。藤内の言う「学園長先生とヘムヘムが連れてきた」女の子というのは、やっぱり先ほどの食堂の少女のことなのだろうか。鐘の音とほぼ時を同じくして現れた先生たちの前に集まりながら、もう一度彼女の笑顔を思い出す。 (次に逢ったら、今度はきちんとお礼を言おう) それから、彼女の名前を聞いてみよう。 朝食をとったことで、寝不足ながらもしっかりした足取りで走ることができたマラソンの最中、数馬は彼女に伝えたい言葉をいくつも考えていた。ちなみにその後の数馬が、マラソン途中で迷子紐の切れた左門と三之助に巻き込まれ、昼食までに学園に戻ることができなかったのは、お約束である。 ( 君との出逢いは、「不運」なんかではなくて、きっと ) |