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15 四文字の倖運 食堂に飛び込んできたのは、萌黄色の服に身を包んだ、よりも幾らか幼く見える少年だった。まん丸の大きな瞳が印象的だ。ずいぶんと急いで来たのか、小さな肩を上下させて荒い息を繰り返している。 少年は、食堂に飛び込んできた勢いと同じスピードで、食堂と台所を繋ぐカウンターに飛びついて、台所の中を覗き込んできた。途端、彼の大きな瞳との視線がかち合う。お互いに、眼をパチクリと瞬かせて、数拍。堪えきれない沈黙に、はにへらと笑ってみた。 「あ、えっと…食堂のおばちゃんでしたら、市場に買い物に行かれましたけど」 「あああ…やっぱり、遅かった」 「もしかして、朝ご飯、食べに来たんですか?」 「………はい」 濡れた手を布巾で拭いて、もカウンターへと近づく。目線の高さがほぼ同じ少年は、心の底からがっかりしたと言わんばかりに、カウンターに項垂れている。がっくり、という効果音が聞こえてきそうだ。どこからか「不運だ…」という声まで聞こえてきた。 きっとまだ、中学一、二年生くらいだろう。育ちざかりの男の子にとって、朝ごはん抜きの一日は結構厳しんじゃないだろうか。中学生のころは荒れていた兄も、作り置きしていたご飯はちゃんと食べていたし。 それに、もしかしてこの子がご飯を食べ損ねたのって、私が来たからなんじゃないのかな。頭を抱える少年を見下ろしながら、は考える。 (だって、私が来てなかったら、きっとまだおばちゃんはお皿洗いをしている時間だったはずだ) 少年の言葉を聞く限り、時間としては際どいタイミングではあったのだと思う。けれど、がお手伝いを申し出たことで、おばちゃんの予定はいつもよりも確実に早まったはずだ。そう考えると、目の前の少年の朝ご飯を奪ってしまったのが自分のような気がして、やり切れない思いが胸を埋めていく。 何か、この子の朝ごはんの代わりになるものがあれば。そう思い、は振り返って食堂の中を見渡す。が食器を洗っていた水場に、木製の戸棚。教科書や時代劇で見たことのあるかまどに、並んだお釜と鉄鍋。 (お釜…お鍋。何か、残ってるかな) カウンターの向かいに並んだかまどに駆け寄り、はお釜の中身を覗き込む。そこには、朝食の残りか、昼食用かはわからないけれど、いくらかの白米が残っていた。これでも、八年以上家の台所を預かっていた身。ご飯があれば、私でもおむすびくらい作ってあげられるはずだ。は、すぐ傍らにいたヘムヘムに視線を落とし、真剣な表情のまま尋ねた。 「ヘムヘムくん。このご飯、使ってもいいかな。後でちゃんと、おばちゃんには謝るから」 「ヘム、ヘム」 ヘムヘムの言葉の意味はやはり分からなかったけれど、首を上下に動かす動きから、同意してくれたことが伝わってくる。それなら、善は急げだ。はヘムヘムに塩と具になりそうなものを出してくれるように頼んでから、カウンターの少年に声をかけた。 「あの、朝ごはん、おむすびでもいいですか?」 「え…作って、くれるんですか!?」 「はい。ご飯はあるみたいだから、ちょっと待ってもらえたら」 「よ、よろしくお願いします!!」 ガバッとこれまた勢いよく顔を上げた少年は、まん丸い目をキラキラと輝かせて、また思い切り頭を下げた。大げさなくらいの勢いで繰り返される動きが、何やら赤べこのようで面白いなあ。なんて失礼な考えを頭から追い出しつつ、はヘムヘムのもとへと足を向けた。 ヘムヘムは、の頼みにすぐ様対応してくれたようで、作業台の上に大小のツボをひとつずつ用意してくれていた。「ありがとう」と感謝を告げて、も洗ったばかりの器にお釜からご飯をよそう。ヘムヘムが用意してくれたおむすびの具は、どうやら梅干しのようだ。それから、小さなツボに入っていた塩も、の知っているものと近く、ひと舐めするとしょっぱい味が口の中に広がる。 集まった材料を一度眺めてから、は手の平を軽く水に濡らした。おむすびを握るのは、楽しい。朝ごはんやお弁当にと良く作るけれど、今日はどんな具を入れようか、三角にしようか、俵型にしてお握りにしようか、と考えながら台所に立つ瞬間がは好きだった。 (それに…誰かのために料理を作るのは、楽しい) 自分が作ったものを、誰かが食べてくれる。であれば、兄であると食卓を囲って、「美味しい」と兄が言ってくれるだけて、何にも替えがたいくらいに倖せな気持ちになるのだ。勉強ができるわけでも、運動が得意なわけでもないにとって、家事全般だけが唯一自信を持てるものだった。 ひとつ、ふたつと梅干しを具にしたおむすびを握る。力を込めすぎないよう、でも形が崩れてしまわないように気を付けながら。 出来上がった三つのおむすびの出来栄えに満足して、ひとり小さく頷き、お皿に乗せてカウンターへと運ぶ。カウンターに顎を乗せ、大きな瞳をさらに見開いて待つ少年の目の前にそれを置くと、に続いてヘムヘムが隣に湯気のたつ湯呑を並べた。 「お待たせしました。はい、どうぞ」 「わあぁぁ…!あ、ありがとうございます!いただきます!!」 そう言って、手を合わせると少年はひとつめのおむすびを両手でつかみ、大きな口を開けてかぶりつく。もぐもぐもぐ、と口を動かして、ごくんと喉が上下する。そして、にっこりと明るい笑みを顔いっぱいに浮かべた。 「―――――美味しい!このおむすび、とても美味しいです」 ふわり。少年の自然と緩んだ表情に、の心の中で何かが弾けたような気がした。兄の言葉とは違う。けれど、少年が自分の作ったおむすびを「美味しい」と言ってくれたこと。たったそれだけのことが、まるで「此処に居ること」を許してもらえたような気がして、胸が温かい。 少年はひとつめのおむすびをあっという間に食べきると、湯呑のお茶を一口飲んで、二つ目に手を伸ばす。あ、ほっぺたにご飯ついてる。そんなに慌てて食べると、喉につまっちゃうんじゃないかな。少年の頬についたご飯粒に手を伸ばして、そんなことを考えていたら、突然少年の手が止まった。 「あ……あの、」 「え、どうかしましたか?」 「い、いえ。なんでもないですっ」 なぜか右へ左へと視線を彷徨わせた少年は、何かを振り払うように首を振って残ったおむすびを食べ始めた。最後のおむすびに少年が手をつけたとき、着物の裾を引かれた気がして、は視線を足元に落とす。そこでは、ヘムヘムが朝と同じように、身振り手振りで用事があると伝えていた。 「ヘムヘムヘム!」 「ああ、もう鐘の時間!?急がなくちゃ!!」 「ヘムー」 「ぼく、もう行かないと…ごちそうさまでした!」 そして、少年はやってきたときと同じような勢いで、食堂を去っていく。なんだか、慌ただしい男の子だったなあ。少年とヘムヘムが駆けて行った出口を見つめていたは、ふと空っぽになったお皿と湯呑に目を向ける。 (美味しい…か) 軽くなった食器を持ってもう一度流しへと戻る。それから、束子を持ってひとつ、ひとつとお皿を磨いていく。先ほどまでと同じはずの洗い物が、さっきよりも楽しく感じるのは、きっと気のせいじゃない。 ( たった四文字の言葉で、こんなにも救われるなんて ) |