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14 脆く崩れ、そして揺らぐ 空っぽになったお膳と食器を、ヘムヘムと半分ずつ抱えて食堂へと向かう。外からみた時にも思ったけれど、この学園は非常に敷地が広いらしく、学園長室から食堂まではずいぶんと距離が離れていた。慣れない着物の裾に何度か足を縺れさせながら、ようやく辿りついた食道の勝手口で、ヘムヘムに膝の裏あたりを押されて、は窺うように中を覗き込んだ。 「ご、ごめんください」 「はいはい、どちらさま?あら、ヘムヘムに…見ない顔だねえ」 が声をかけると、明るい口調の体格の良い女性が奥から現れた。お膳を抱えたまま背筋を伸ばし、は一度頭を下げる。 「昨日からお邪魔しています、です。初めまして」 「ああ、あなたが!小松田くんから聞いたわよ。ヘムヘムを助けてくれたんですってね」 「あ、いえ。たまたま居合わせただけなんです。それよりも、お食事、ご馳走様でした。とても美味しかったです」 「あら、嬉しい。ちゃんはずいぶん遠くから来たんだってねぇ。ご飯、食べられないものはなかったかい?」 食堂を預かっているというおばちゃんは、とても気持ちの良い人だった。「どれも美味しくて、作り方が知りたいくらいです」とが告げると、豪快に笑っての頭を二度三度と撫でてくれる。 あれ、そういえば昨日から頭を撫でられることが多い気がする。私って、そんなに子供っぽいのかな。 大きな手の平で撫でられながら、そんなことを考える。確かに兄妹揃って平均身長よりも小柄だが、子供と言える年齢はとっくに過ぎているはずなのに。温かな手が触れることは嬉しいけれど、なんとも複雑な心地には小さく苦笑いを浮かべた。 「わざわざお膳を持ってきてくれたのかい?」 「はい。それから、ご迷惑でなければ、何かお手伝いさせていただけないかと思いまして」 「ヘムー!」 声は、震えていなかっただろうか。少しの不安を混ぜ込んで、まっすぐにおばちゃんの表情を見つめて尋ねるに、おばちゃんは目を丸くすると、すぐに破顔して大きな口を開けて笑った。 「あら、嬉しい!それじゃあ、お願いしようかね」 「…!は、はいっ、よろしくお願いします」 「ヘムヘム!」 「あははっ、良い返事だねえ」 「あの、私でもできること、ありますか?」 「そうだねえ。もう朝ごはんの時間は過ぎたから、後片付けを手伝ってもらえるかい?そこの食器を洗って、棚に仕舞ってほしいんだけど…」 なるほど、もう食事の時間は終わっていたのか。人一人見当たらない、台所から続く食堂の風景を視界の片隅に捉え、思わず納得する。思い返してみれば、昨晩現れた雷蔵と出逢った以外、はこの学園の生徒らしい生徒を見た記憶がなかった。活動時間がずれているのか、それとも他の理由があるのか。喉に引っかかる違和感を拭いきれないまま、視線をおばちゃんの方へと戻す。 おばちゃんが指差した台所の中ほどには、使い終わった後と思われる大量のお椀とお皿が積み上げられていた。二人暮らしだった家の台所とは比べようもない食器の山に、思わず「わっ」と小さく声が漏れてしまった。けれど、おばちゃんに示された束子のようなものと、水拭き用の布巾とを見比べて、はとにかく嬉しくなって、おばちゃんが不思議がるのも気にせず、声を出して笑ってしまう。 (よかった。私にもできること、ちゃんとあった) 洗剤はないし、水道だってないけれど、スポンジと水と洗剤代わりの灰汁のようなもので汚れを落とす作業は同じ。緩んだ表情のまま、おばちゃんから場所を譲り受け、水場の端に積まれたお椀を手に取る。ひとつ、ひとつと磨いては、手に取り、また磨く。だんだんと少なくなっていく食器の数と反比例して、の心は少しだけ軽くなっていく気がした。 しばらくすると、周囲の片づけを終えたらしいおばちゃんが、の手元を覗き込んで、一度大きく頷いた。それから、身に着けていた割烹着を脱ぎながら言う。 「洗い物はちゃんに任せちゃっても大丈夫そうね。しまう場所はヘムヘムが知ってると思うから、聞いてちょうだい」 「はい、わかりました」 「それにしても、手伝ってもらえて助かったわ。今日はひとつ先の市場まで買い物に行きたかったのよ。悪いんだけど、あとはお願いしてもいいかしら」 「あ…私で、いいんですか?」 食器洗いのお手伝いとはいえ、顔を合わせたばかりの見ず知らずの人間に任せてしまっても良いのだろうか。不安げに手を止めるが、おばちゃんは気にする様子など欠片ほども見せない。それどころか、「あ!それが終わったら、薪割りもお願いしてもいいかしら」と最後まで笑顔で出掛けて行った。 (…いいのかな、本当に) 台所と言えば、女性にとっては自分の砦も同じ。そう考える人も多いのではないのだろうか。そんな重要な場所を、見ず知らず、そのうえ妙な格好で現れた得体のしれない娘に任せてしまうなんて。すでに見えなくなったおばちゃんの背の残像を追いながら、カチャカチャと手元を動かし続ける。 出逢ったばかりの人間を、無条件で信用してくれる訳がない、とは思う。ヘムヘムも平次も秀作も、を一見したときには、やはりのことを観察していたような気がする。ヘムヘムは自分のことを好きだと言ってくたけれど、疑うのも、警戒するのも尤もだ。夢みたいな話をする、変な格好の人間が目の前に現れたら、きっとだって距離をとる。それなのに、これまで顔を合わせた学園の人たちがとごく普通に接してくれたのは、いったいなぜなのだろう。 「……よし。これで、半分くらいかな」 「ヘム、ヘム」 「ヘムヘムくんも手伝ってくれるの?それじゃあ、こっちのお椀を拭くの、お願いしていいかな」 足元で大きく頷いたヘムヘムは、近くの布巾を手に取ると器用にお椀を拭きはじめる。ヘムヘムと同じようにも手を動かしながら、ふと気が付く。 (そっか。ここにはヘムヘムくんがいるから) 時おり、の方を見上げてにっこりと笑うヘムヘムが一緒だから、おばちゃんも食堂にを残して出かけて行ったんだ。がこの学園に招かれたのも「ヘムヘムの恩人」だから。雷蔵がを知っていたのも、が「ヘムヘムの恩人」だから。 ここに至るまでのすべて、はヘムヘムに助けられているのだ。 「……ありがとね、ヘムヘムくん」 「ヘム?」 「ううん。ちょっと、言いたくなっただけ」 不思議そうな顔をするヘムヘムにそれだけ告げて、もう一度は残った食器を洗うために手を伸ばした。 「おおおおばちゃーーん!!!朝ごはん、残ってませんか!?」 ポチャン。 掴んだ食器が水の中へと落下する。沈んでいく食器と、弾けた水を追いかけた視線を上げたが見たのは、の借りた着物と同じ萌黄と、息を切らした少年の姿だった。 ( 私の立っていた場所なんて、きっと信じられないくらい脆かったんだと、知る ) |