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13 その足が踏みしめる場所 が目を覚ましたのは、まだ夜も明けきらない朝霞が残る時刻だった。 昨晩、不破雷蔵と名乗る少年からこの場所の書物や文字のことを教えてもらったは、ヘムヘムに促され押し入れに入っていた布団を部屋の隅に引いて、床に就いた。明りを吹き消した室内は、が見たことのない暗闇で、同じ布団の中に入り込んでいたヘムヘムの手に指先で触れたまま、は瞼を閉じた。 きっと、こうして一緒に寝てくれることも、心配をしてくれるからなんだろう。 ヘムヘムの優しさが何よりも嬉しくて、長い長い一日の終わりに、は必死で零れそうになる嗚咽を飲み込む。 泣くな、泣くな。 だって、この世界の人たちは、優しい人ばかりじゃないか。 ヘムヘムくん。大川さん。小松田さん。土井さん。山本さん。そして、雷蔵くん。 みんな、みんなを否定せず、のことを見てくれていた。それが、「ヘムヘムの恩人」としての人物像だったとしても、だ。 ヘムヘムと向かい合ったまま、堪えつづけた想いは、ばれやしなかっただろうか。それだけが不安だったけれど、気が付けはの意識は遠のき、不思議とぐっすり睡眠を取ることができた。 ヘムヘムを起こさないように気を付けながら、そっと布団から這い出す。時刻は五時になったばかり。どうやら、普段のアルバイトに向かう感覚で目覚めてしまったようだ。培った体内時計というものは、場所を変えても意外と正確に働くらしい。 (空気…冷たいな) 障子の戸を開けて、一歩外へと足を踏み出す。昨夜、丁度雷蔵と出逢った場所に立ち、向かいの生垣を眺めた。 (なんで、こんな場所に居るんだっけ) 大きく息を吐き出して、思い切り吸い込む。澄んだ朝の空気に肺の中が綺麗になっていくみたいだ。これまでの中を構成していた元の世界の空気が、この世界のものに入れ替えられていく。そう考えると、気持ちのいい朝の空気が、胸に突き刺さるような気がした。 深呼吸を繰り返しながら、昨日一日のことを思い返す。それから、今日行わなければならないことを指折り数えて、は自分の両頬をパンパンッと二度叩いた。 「ヘム、ヘムぅ…?」 「あ、ヘムヘムくん。ごめんね、起こしちゃったかな」 「へむぅ…」 振り返ると、眠たげに目を擦るヘムヘムが、布団の中で起き上がっていた。古寺で目覚めたときにように、両前足を上げて大きく身体を伸ばすヘムヘムは、次の瞬間にはパッチリと瞳を見開いて布団から飛び上がる。 「おはよう、ヘムヘムくん」 この世界で初めて口にした朝の挨拶に、ヘムヘムは弾むように顔を綻ばせた。 ヘムヘムが朝食の時間と教えてくれた時刻は、陽がもう少し上がった頃らしい。腕時計の時刻と太陽の高さとを見比べてから、はヘムヘムに案内して貰った井戸で顔を洗い、昨日借りた着物に着替え、身支度を整える。 それから、キャリーバッグとリュックサックの中身を客間に広げ、残すべきものと、そうでないものとに分けていった。結婚式に参加をする予定だったおかげで、にしては珍しく貴金属の類も多少、鞄の中に詰めていたことが怪我の功名と言うべきか。中には未来の伯母からの借り物もあったが、背に腹は代えられない。そう考え、必要最低限のものを残して、多くを「売るもの」の方へと寄せていく。 「ヘム…ヘムヘム?」 「これ?これはね、携帯電話って言って…」 時おり、不思議そうにの荷物を指さすヘムヘムに説明をしながら作業を進める。小一時間もしないうちに分類も終わり、気が付けば外も大分明るくなっていた。ヘムヘムは「用事がある」と身振り手振りでに伝えると、四本足で駆けていく。それからしばらくして、ゴーンとお腹に響く大きな鐘の音が鳴った。 「これが…朝の合図、かな」 音のした方の空へと視線を向け、はしばらく余韻を聞いていた。空気を揺らした音はあっという間に霧散して、辺りには鳥の声と風の音だけが残る。どこにもない、人の気配に安堵と不安を感じながら、ヘムヘムが戻ってくるまでの間、は荷物の整理を続けた。 * * * 「ごちそうさまでした」 昨晩の夕食と同じように学園長室で朝食をいただいたは、両手を合わせて目を伏せた。がヘムヘムとやってきた時にはすでに整っていた膳は、夕食と同じく本当に美味しくて、自然と口元が緩んでしまう。 このお味噌汁、どうやって出汁を取ってるんだろう。煮物の味付けも、家の台所を預かっていた身としては、非常に気になるところだ。 お膳の食事を綺麗に平らげたを見て、「うむ」と満足げに頷いた平次は、に昼食が終わるまでゆっくりしているようにと告げた。無論、がそれに簡単に頷くとは思っていなかったのだろう。が「いいえ」と申し出を断ると、困ったように息を吐いた。 「ごめんなさい、昨日から我儘ばかり。でも、働かないのにご飯ばかり頂くなんて、落ち着かないんです」 「じゃから、お礼だと言っているじゃろう」 「お礼にしても親切にしていただき過ぎてます。それに、『働かざるもの食うべからず』が育ての親の口癖なんです。ご迷惑でなければ、時間まで何かお手伝いさせていただけませんでしょうか」 「ふぅむ…手伝い、のう」 難儀な性格だと言われるかもしれないが、幼いころからこうして成長してしまった以上、なかなか生来の性質を変えることはできない。三つ子の魂百まで。もうここまで来たら、この性格と付き合うしかないと思っている。 それに、「自分でできることは自分でやること。本当にどうしようもないときだけ、頼ること」も伯父の口癖だ。もちろん、この場所の常識が欠けている以上、にできることは限られるだろう。だからこそ、私でもできることがあれば、と付け加えては平次の言葉を待った。 暫し、考えるように腕を組んだ平次は瞼を閉じて、眉を二度三度と動かす。うーむと唸る声が数拍続いたころだろうか。カッと両目を見開くと、天晴れと書かれた扇を右手に掲げ、立ち上がった。 「その心意気や良し!!よ!」 「は、はい!」 「時間まで、食堂のお手伝いに行ってはくれんかのう。おばちゃんはいつも人手不足だ、と零しておるのじゃ」 「…ッ!はい、よろしくお願いします!」 「うむ。ヘムヘム、案内してやりなさい」 「ヘムー!」 勢いよく返事をしたヘムヘムと向き合い、目の前に向けられた両掌に自分のそれをポンっと合わせる。胸の中でむくむくと高まる熱は、初めてひとりで夕食を作れた時の感激と似ている気がした。 ( 私にもできること。ひとつずつ、見つけていくことができたなら ) |