12 彼女に関する所見 −銀の靴を失くした少女−


そう名乗った少女は、雷蔵の眼にひどくふわふわとした存在に映った。地に足が付いていない、というのはこういうことを指すのだろうか。確かにそこに居るはずなのに、どこかぼんやりとしており、瞬きをした次の瞬間には、消えてしまいそうな、曖昧な存在。
ヘムヘムのことを抱きしめて、震える声でお礼の言葉を口にしたその時だけ、唯一彼女がそこに確かに居るのだと、雷蔵には思えたくらいだった。

(こうしてみる分には…普通の女の子、なんだけどなあ)

ゆらゆらと揺れる瞳で雷蔵を見上げるに、一歩二歩と近づきながら、雷蔵は夕刻のことを思い出す。

夕食前、雷蔵は食堂に向かう途中で学園長先生に出逢った。大層機嫌が悪そうな学園長先生は、雷蔵を見つけると何か閃いたように「おお!」と声を上げて、雷蔵に一つの用を申し付けた。頼み事は、何冊か手習い本を見繕って、夕食後に学園長室まで届けてほしいというもので、意図の見えない内容にひとしきり悩んでから、少し遅れて食堂へと向かった。
食堂に着くと、すでに同級生たちが席についており、おばちゃんから定食を受け取った雷蔵も遅れてそれに合流した。夕食の席の話題は、ある一人の来訪者のことだった。どうやら兵助、八左ヱ門、三郎の三人が目撃したという学園長とヘムヘムのお客人が、非常に珍しい格好をした少女だったらしい。しかも、学園長先生に尋ねても、どこの誰と明確な回答が返ってこず、ただ「ヘムヘムの恩人」とだけ告げられたとか。

「あの子、いったいどこの誰なんだろう」

誰一人として答えを持たない問いに対する憶測が、食事の席の上を飛び交う。その中で、みんなの話をぼんやりと聞いていた雷蔵は、ずっと学園長先生に頼まれた手習い本のことばかりを考えていた。
適当に、と言われたが、どんなものが良いだろう。
どのくらいの冊数を選んだらいいのだろう。
結局、夕食後に図書室に向かってからも、あれこれと悩むうちに夜も更け、学園長先生に数冊の本を届けた時には、随分と遅い時間になってしまっていた。しかし、遅い時刻にも関わらず、学園長は雷蔵を咎めず、機嫌良さそうに本を受け取ると、雷蔵に感謝の意を告げた。
部屋を退出する際に気になったのは、普段とは異なる妙な違和感。学園長先生の機嫌が直っていたことだろうか。それとも、お膳が三つあったことだろうか。
その違和感の正体に雷蔵が気付いたのは、学園長室からの帰り道の途中だった。


「月は、おんなじなんだね」
「ヘム…?」


生垣をひとつ分挟んだ先から聞こえたのは、抑揚のすくない、けれどはっきりとした耳に残る少女の声。それから、普段であれば夕食後には学園長先生と一緒に部屋にいるはずの、ヘムヘムの鳴き声だった。
聞きなれているはずのヘムヘムの声は、どこか焦った様子で、ひたすらに何かを告げている。その隙間を縫うように、少女は変わらぬ調子で言葉を紡ぐ。その場に足を止め、聞き入ってしまっていた雷蔵は、ヘムヘムが必死に彼女に伝えようとする意味を知り、悩み、悩み、悩んだ末に二人の前へと一歩、足を踏み出した。

(あ…そうか)

少女を気遣うヘムヘムを見て、雷蔵はふと気付く。夕食時に同級生が話していた件の来訪者が、きっと彼女なのだ。そして、理由は分からないけれど、自分がこうして彼女に声をかけることを期待して、学園長先生は用事を頼んだのだろう。今さら読む必要のない手習い本を所望したことも、わざわざ迷い癖のある雷蔵を選んで頼み事をしたことも、夜遅くになって訪ねたのに機嫌がよかったことも、全て、少女と雷蔵が出逢いやすい切っ掛けを作るため。

ちゃんっていうんだ。よろしくね」
「あ、え、と。よろしく…お願いします、不破さん」
「雷蔵でいいよ。僕もちゃんって呼ばせてもらうから」

近寄ってみればみるほど、は普通の少女だった。
小柄な体躯は、少し大きめの夜着を纏っている所為で余計に小さく見え、裾から覗く手足は雷蔵の手の平にすっぽりと収まってしまいそうなくらいに細く、華奢だった。くの一のような鍛錬など、まったく積んでいないことは明らかだ。なにより、の存在感は薄いものの、それを隠そうとする様子はまったく見られない。演技にしては無駄の多い彼女の動きは、それが本心から生じた以外の何物でもないように、雷蔵は感じた。

「ヘム、ヘムヘム、ヘム」
「ほら、ヘムヘムも言ってるよ。もっと親しみを込めて、って」
「親しみ…ですか。えっと、じゃあ、雷蔵、くん?」
「うん、そう呼んで」
「それじゃあ、雷蔵、くん。あの…あなたは、どうしてここに?」
「学園長室から長屋に戻る途中で、ヘムヘムと君の声が聞こえたんだ。学園長先生に手習いの本を持ってくるように言われたんだけど…悩んでいたら遅くなっちゃって」

こんな時間になっちゃったんだよね。 照れ隠しのように雷蔵が頭を掻くと、ぽかんと目を丸くしたは、次の瞬間、口元を隠してくすりと小さく笑った。

(あ、笑った)

俯いた顔は十人並みのではあったが、自然と浮かべられた笑みは少女らしい朗らかさが籠もり、素直に可愛らしいと思えるものだった。もちろん、くの一教室にはもっと美人だったり、容姿の整った者はたくさんいる。けれど、彼女たちの計算尽くされた微笑みとは異なって、素朴なの仕草は、不思議と好感が持てる気がした。ちなみに、数少ない上級生のくのたまが哂うと、基本的に疑心と恐怖が生まれる。

「あの」
「ん?どうかした?」
「先ほど、手習いの本と仰ってましたが、この場所にも本があるんですか?」
「もちろん、あるよ。だって僕、図書委員だし」
「図書委員…あの、ちょっと見ていただいてもいいですか?」

笑ったことで初めの緊張感が取れたのか、恐る恐る雷蔵に尋ねたは、立ち上がると部屋の中に戻り、部屋の隅に置かれた彼女の荷物らしきものを漁り始める。
しばらくして、小走りで戻ってきたの手には、小さな四角いものが握られていた。雷蔵のほうに差し出されたそれを覗き込むと、どうやら仔細は違えど、本のようなものであることがわかる。の手の平よりも一回り大きなそれから視線を動かし、震える唇を引き結ぶを見る。

「これは…?」
「私が住んでいた場所で、一般に流通している本です。この場所のものとは、やっぱり、違いますか?」
「うーん、そうだなあ。見た目は大分違う気がするけど。良ければ、中も見せてもらってもいいかな」

雷蔵の提案に大きく頷いたから、本と呼ばれた薄い紙の束を受け取る。その際に、一瞬だけ触れた指先に、雷蔵はドキリと息を飲んだ。ほんの僅かではあったけれど掠めた人の体温が、確かに彼女がここに存在しているのだと、雷蔵に告げる。不確かだったの存在が、目の前で幕を取り払ったように明るく見えた。
粟立つ感情を誤魔化すように、受け取った「本」をパラパラとめくる。中には、爪先ほどの小さな文字と、異国情緒の強い絵が描かれており、確かに彼女の言うとおり、雷蔵たちの管理する「本」とよく似ていた。しかし、書かれた文字は墨によるものとは到底思えず、捲る紙質も雷蔵が先ほど選んできたばかりのそれとは、大きく異なっている。文字は主に漢字と平仮名で構成されており、読めないことはない。けれど、時折混じる単語には、意味がわからないものも多く存在していた。

「うーん…読めるような、読めないような。漢字とか平仮名は同じかなあ。これは、どんな本なんだい?」
「えっと…異国で書かれた、童話のようなもの、でしょうか。竜巻に巻き込まれて別の国にたどり着いてしまった少女が、様々な冒険を経て、家に帰るまでのお話なんです」
「へえ、異国のお話なんだ。…これ、僕にもわかるかなあ」
「そうですね。小さな子向けにアレンジされることもあるお話ですから、読みやすいと思います。…よければ、お貸ししましょうか?」
「え、いいの?」
「はい。もちろんです」

見たことのない異国の本、というキーワードに興味を引かれた雷蔵は、の提案に一も二もなく感謝の言葉を告げて、借りたばかりの本を懐に仕舞った。
それから、に問われて雷蔵の良く知る「本」と「文字」についてひとしきり話をすると、は一所懸命な様子で雷蔵の言葉に耳を傾け、最後には納得したような、困ったような、曖昧な表情を浮かべた。

気が付けば、月の傾きも大きくなっていた。雷蔵は「それじゃあ、おやすみ」と手を振ってと別れる。も、ぎこちなさは残るものの、笑顔を浮かべて雷蔵を見送ってくれた。
夜の闇の中を駆けて自室に戻ると、自分と同じ顔をした同室の三郎が「おかえり」と迎えてくれる。

「ずいぶん遅かったな。どこに行ってたんだ?」
「学園長先生のところだよ」
「…それにしては、機嫌が良さそうだな。何かいいことでもあったのか?」
「うん。新しい友達ができたんだ」

友達?と頭に疑問符を浮かべる三郎には笑って返し、雷蔵は借りたばかりの本を懐から取り出し、灯台の明かりの中、表紙をめくった。


( 本の中の見知らぬ単語たちの意味を君に尋ねたら、また笑ってくれるかな )


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