|
11 月と味方 「あら、貴女がちゃんね」 明日の昼時にまた迎えに来るよ、と告げ、半助が去った学園長室に次いで現れたのは、淡い薔薇色の口紅が妖艶なとても綺麗な女性だった。山本シナと名乗った女性は、を見るとにっこりと微笑み、の頭を撫でた。 「山田先生から話は伺っているわ。ヘムヘムのことを助けてくれて、ありがとう。それから、これ。よかったら、受け取って頂戴」 そう言って渡されたのは、数着の着物だった。桃色に橙、萌黄色に白。手渡されたそれと、手渡した山本シナとを見比べるに、彼女は「ふふふ」と美しく笑う。 「貴女の格好も素敵だけれど、町に行くのなら、着物の方が良いでしょう。くの一教室の卒業生のお古だから、あまり気に入らないかもしれないけれど」 「そんな…!こんなにたくさんのお着物、受け取れません。私、お金もありませんし」 「あら、いいのよ。この萌黄色なんて、きっと貴女に似合うと思うわ。それから、こちらは夜着ね。くの一用のお風呂がもうそろそろ空くころだから、案内するわ」 「でも」 言い連ねるの言葉を笑顔で制し、山本シナはの手を引いた。その後ろを追いかけるように、ヘムヘムが続く。戸惑い、一瞬振り返ったが背後で見たのは、嬉しげに優しく微笑む、平次の姿だった。 * * * (お風呂…気持ちよかったなあ) 山本シナが案内してくれた風呂場は、が想像していた以上に、の知っているお風呂に近いものだった。戸惑う背中を「女の子だもの。遠慮しないで」と山本シナに押され、はヘムヘムと共に問題なく入浴を済ますことができた。お風呂上りには、夜着だと渡された浴衣のような真っ白い着物を羽織り、ヘムヘムに教えてもらいながら腰ひもを締める。少し丈は長いけれど、卒業生のお古とは到底思えない柔らかな布地に、は胸が痛むような気がした。 灯りを持ったヘムヘムに先導され、秀作に案内された客間へと戻る。温かな春とはいえ、夜の風はどこか冷たく、濡れたの髪を攫っていた。けれど、少しだけ風に当たりたくて、先ほどまで着ていた服と借りた着物を部屋の隅に置いて、縁側へと足を向ける。客間の明かりに火を点したヘムヘムも、の隣に腰を下ろした。 ふと視線を落とした腕時計は、夜の九時過ぎを指していた。部屋の中の灯台以外に明りはないくせに、いやに明るい月の光がたちを照らしている。見上げると、周囲の星を消し去るように煌々と輝く欠けた月が、天高い位置から傾いていた。 「月は、おんなじなんだね」 「ヘム…?」 「あ、ごめんね、ヘムヘムくん。私のいた場所とね、月が明るくて、綺麗なのはおんなじなんだなあ、って」 ぶらぶらと投げ出していた足を、縁側の上で抱える。膝に頭を載せて横を向けば、座るヘムヘムと視線の高さが近くなって、はなんだか嬉しくなった。 「お兄ちゃんも、見てるのかなあ」 お風呂に入って、星空を見上げて、気が抜けてしまったのだろうか。不意に口から飛び出してしまったのは、今呟いても周囲を困らせてしまうだけのものだった。こんなこと、口にするつもりはなかったのに。 覗き込んだ真っ黒なヘムヘムの瞳は、ゆらゆらと揺れていた。哀しんでいるのだろうか。それとも、困っているのか。失態を誤魔化すようには足を抱えていた手を伸ばし、ヘムヘムの頭に乗せて、そっと左右に動かす。擽ったそうに眼を細めたヘムヘムは、躊躇うようにの夜着の袖を引いた。 「ん、どうしたの?ヘムヘムくん」 「ヘム、ヘム…?」 「…もしかして、また心配かけちゃってるかな」 尋ねるが、ヘムヘムは同意も否定もせずに、ただただを見つめ続ける。出逢ってからずっと、ヘムヘムには案じてもらってばかりだ。そして、何度勇気づけられているのだろう。今日一日のことを思い返し、がヘムヘムを助けたことよりも、ヘムヘムに助けられた回数の方がずっと多いことに、情けなさばかりが募る。 ああ、どうしてこんなに、この子は温かいんだろう。ヘムヘムの頭から手を離して、もう一度膝を抱え直し、は言った。 「ヘムヘムくんは、優しいね」 「ヘ、ヘム…」 「でも、心配しないで。私は、大丈夫だから。だって、まだまだ全然、"最悪"なんかじゃないもの」 だって、ヘムヘムくんも大川さんも、みんないい人たちばかりだから。 にっこりと眦を緩めて笑えば、ヘムヘムはつられるように表情を曇らせた。 「ヘムヘムヘム、ヘム」 「えっと…」 「ヘムー!ヘムヘムッ、ヘムヘムヘム」 「…ごめんね、ヘムヘムくん。私には、」 「きっとお兄さんも見てるから、心配ないって言っているよ」 音もなく、突然会話に交じった声。慌ててが周囲を見渡すと、客間の前に広がる植え込みの傍、大木の影から生えるように一人分の人影が現れた。 人影が一歩足を進めると、月の光をうけて形がはっきりとしてくる。に声をかけたのは、ボリュームのある髪に、少し面長な顔立ちが印象的な少年だった。少年は、彼の突然の登場に言葉を詰まらせたままのの方へと足を進め、ゆったりとした口調で話し続ける。 「突然、ごめんね。本当は、声をかけようかどうしようか、迷ったんだけど…ヘムヘムが君に必死に伝えたがっているみたいだったから」 「あ、いえ。大丈夫です」 「よかった。ヘムヘムは、君に『無理しないで』って言ってるよ。それから、君のお兄さんもきっと月を見てるから、心配ない、って言ってる」 少年の言葉を理解するために、は瞬き数回分の時間を要した。 ぽかんと口を開けたまま、緩慢な動きで首を回す。を見上げるヘムヘムは、少年の言を肯定するように、一度大きく頷いた。 「ヘムヘムくん…」 「ヘム!」 見知らぬ場所に辿りついて、数時間。この世界は、にとって「他人」だけの場所だった。名前も顔も知らない人々、似ているようで異なる日常、を異分子として扱う視線たち。この世界には、の味方はいない。だから、ただ一人を知っている、無条件での味方となってくれる兄を探したいと思った。 それなのに、たった数時間、過ごしただけの世界で、は。 「ありがとう、ヘムヘムくん」 気が付けは、は両手を伸ばしていた。ヘムヘムの頭を抱え込むように、ぎゅっと抱きしめる。腕の中全体に、自分とは異なる熱が伝わる。それが、泣きたくなるくらいに嬉しくて、は必死に唇を噛みしめた。 の腕の中で、ヘムヘムは少しだけ苦しそうに「へむぅ」と小さく鳴いた。慌てて身体を離したの目に飛び込んできたのは、満面の笑みを浮かべるヘムヘムの満足そうな姿だった。 「ヘムヘムヘム!」 「『どういたしまして』だって。君とヘムヘムは、すごく仲が良いんだね」 「あ…ごめんなさい。せっかく教えてくださったのに、お礼も言わないで」 「そんなこと、気にしないでいいよ。僕が勝手にやったことだもの。 ところで、君が学園長先生とヘムヘムが連れてきたっていう、ヘムヘムの恩人…なんだよね」 「あの、どうしてそれをご存知なんですか?」 通訳を続けてくれた少年は、暗闇の中でも映える明るい笑顔を浮かべている。裏のないその表情は、どこか秀作に似ているような気がした。けれど、彼が口にした内容は、初めて出逢うはずの彼が知っているはずのないことのように思えて、は首を傾げる。少年は、ああ、と困ったように頭を掻いていた。 「実はね、三ろ…クラスメイトに聞いたんだ。夕方ごろ、学園長とヘムヘムと一緒に女の子が学園に来た、って」 「それなら、きっと私のことだと思います。でも、ヘムヘムくんの恩人なんて、言えません。だって、私の方がずっと助けてもらってますから」 「そうなの?うーん…そうなのかなあ。そうは思えないけど…うーん…………あ、そうだ」 腕を組んで思案するような仕草をみせる少年は、しばらく「うーん」と唸ったかと思うと、突然パッと閃いて、告げる。 「自己紹介がまだだったね。僕は不破雷蔵。君の名前は?」 ( たくさんの「他人」の中で、煌々と輝くあなたは、きっと ) |