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10 踏みだす右足、留まる左足 ご飯にお味噌汁、野菜のおひたしに焼き魚に煮物にお新香。純和風な膳の上の食事は、には少し贅沢すぎる内容な気もしたが、栄養バランスも良さそうでとても美味しく、あっという間にぺろりと完食してしまった。 が箸をおいて「ごちそうさま」と手を合わせたことを確認すると、「さて」と一呼吸おき、平次が口を開いた。 「先ほど、ヘムヘムに聞いたのじゃが、はどうやってあの寺に来たのかがわからないそうじゃの」 食事中の雰囲気とまったく変わらない調子で問いかけられた内容は、今のにとって、もっとも重要な問題であると同時に、もっと触れられたくない部分だった。それにしても、いったいいつ、ヘムヘムは平次に伝えていたのだろう。この部屋に来てから、平次とヘムヘムがの前からいなくなって、二人だけで会話をしたタイミングなんでなかったはずなのに、と答えに詰まりながら、そんなことを考えてしまう。 「それから、兄君とはぐれてしまった、と」 「…はい、そのとおりです」 平次が尋ねてきたことはすべて事実で、すでに秀作にも話していた内容であったため、は否定することなく、同意の言葉を口にする。 どこに行くつもりなのか、誰かを待っているのか、ゆく宛てはあるのか。 ふと、この学園へと誘われた折に、平次に問われた内容を思い出す。あの時は、結局なにひとつ答えることができなかった。それは、自身が自分がどこにいるのかも、どんな状況にあるのかも、どこに行きたいのかもわからなかったがために、曖昧に笑って誤魔化すことしかできなかったのだ。 もちろん、今だってその状況に変化はない。けれど、少しだけ変わった気の持ちようが、に「答え」を与えてくれた。 「荒唐無稽な話だと、笑ってくださって構いません」 そう前置きをして、は自分があの寺に来るまでの出来事を話し始めた。 「…ふむ。すると、はその"車"と呼ばれる乗り物に轢かれそうになり、眼を閉じて開いたら、あの寺に立っていた、と。そう言うことじゃな」 「はい、そうです。理由も、方法もまったくわからないのですが、きっと私のいた場所と、こことは、とても…とても離れているのだと思います」 「ほう。それは、帰る方法がわからない、ということじゃな」 「そう、です。元いた場所がどこにあるのかも、どうすれば帰ることができるのかも、私にはわかりません。今の私には、行くべき場所もありません」 まるで夢を見ているとしか思えないようなの話を、平次もヘムヘムも、一度として笑うことなく、最後まで聞いてくれた。それだけのことがには嬉しく、自然と顔には笑みが浮かぶ。笑っていられるような状況ではないけれど、悲観ばかりでもいられない。笑う門には福が来るものだと、の伯父も言っていた。笑えるうちは、とにかく笑っていようと、は思った。 (だって…きっとまだ、「最悪」じゃない) 元いた場所がどこにあるのか分からなくても、帰る方法が見つからなくても。まだ、自分には残されているから。頭の中だけで呟いた言葉が決して口から溢れ出ないよう、は膝上の手の平をきつく握りしめる。 「でも、行くべき場所はありませんが、行きたい場所はあります」 「…それは、兄君を探す、ということか?」 「はい。兄はきっと私のことを探しています。だから、私も兄を探したい。探して、まずは合流したいと考えています」 「なるほどのう。しかし、そう簡単なことではないじゃろう。なにせおぬしは、この場所のことをまったく知らないのじゃろう?」 の話を信じているのだろうか。平次は疑う言葉を口にすることなく、のこれからを案じてくれる。視線を少し横に動かすと、ヘムヘムも心配するように眉を下げていた。 平次の心配はもっともだ。はこの場所のことを全く知らない。どんな常識を持って、どんな日常を持って人々が生活しているのか、お金も服装も食文化も仕事も、生きるために必要な様々なことがゼロの状態といっても過言ではないだろう。人探しに必要な土地感すら、皆無だ。 「確かに、私はこの場所のことを何一つ知りません。知り合いもいないし、お金もない。生活することすら、難しいかもしれません。でも、先ほど小松田さんに、私の持っているものが、こちらのお金に替えられるかもしれないと伺いました。仕事も…私で出来ることがあるのなら、なんでもやるつもりです」 けれど、だからと言って立ち止まっていることもできない。だからは、一歩でも良いから前へと進もうと決めた。言葉が通じ、お金でのやりとりが行える場所なのであれば、先立つものが手に入れば少しは生活の基盤を確立できる。仕事も、これまでの内職や家事、アルバイト経験を活かしてできることなら、なんでもやる。 そうすれば、きっと、なんとかならないことはないはずだ。だから、とは平次に頭を下げ、ひとつの頼みごとを伝えることにした。 「ここから、一番近い町までの道を教えていただけませんでしょうか?どうしても、ここに来るまでの道を覚えることができなくて」 おねがいします。 お膳と膝の間に両手をつく。長い、長い沈黙がその場を支配していた。平次もヘムヘムも、何一つ言葉を発しない。二人はいったい、どう考えているのだろう。恐る恐る、が少しずつ顔を上げると、平次は口を引き結んで、静かに瞼を閉じていた。その表情は只管に穏やかで、まるで流れる川のようだとは思う。ああ、きっとこの人は、とてもすごい人なんだ。誰に言われるわけもなく、そう理解することができた。 「あの、大川さん?」 「…おお、すまんのう。少し、考え事をしておったのじゃ」 「考え事、ですか?」 「うむ。そろそろ…来るころじゃと思うのだが」 「学園長先生」 平次の言葉を遮るように現れたのは、若い男性の声と障子に映る人影。今度は、が身体を強張らせるよりも先に平次が「入れ」と声をかけ、すっと音を立てて障子が開いた。 膝を立て、そこに座っていたのは夜の色に紛れ込む黒い色の服を着た、年若い青年だった。青年は、小さく下げていた頭を上げると、平次とに交互に視線をむけ、真剣な表情を少し緩める。 「お呼びと伺いましたが…早すぎましたでしょうか」 「いやいや、お前を待っておったところじゃ、半助。 よ。こやつは土井半助。この学園の教師の一人じゃ」 「あ、初めまして、です」 「土井半助です。こちらこそ、初めまして」 が慌てて名前を告げると、土井半助を名乗る青年はにっこりと柔らかな笑みを浮かべた。なんだか、優しそうな先生だなあ。当たり障りない第一印象を抱きつつ、も返すように笑った。 それにしても、先ほど平次は「待っていた」と言っていたけれど、いったいどういうことだろう。疑問の意を込めて平次とヘムヘムを見遣ると、平次は穏やかな表情のまま告げる。 「半助に頼みたいことがある」 「はい、なんでしょう?」 「明日の午後は、確か一年生の授業はなかったはずじゃな」 「はあ…確かに授業は昼までですが」 「では、昼食の後でを町まで案内してくれんかのう」 「そんな…!そこまでご迷惑はかけられません。道さえ教えていただければ」 平次の提案に異を唱えたのは、頼みごとをされた半助ではなく、の方だった。しかし、の言葉など聞かないと言わんばかりの態度で、平次は半助への言葉を続ける。 「それから、の持ち物を売ってくるのを手伝ってやってほしいのじゃ」 「彼女の持ち物、ですか?はあ…もちろん、構いませんが」 「構わなくありません。ですから、そこまで親切にしていただく訳にはいきません」 「…は頑なじゃな。しかし、道はおろか、どこで品物を売れるのかもわからぬのでは、町に行っても困るじゃろうに」 「それは…確かにそうですが」 「そういうわけじゃ。では、半助。頼んだぞ」 打ち切られた会話に、は唇を噛みしめる。 秀作に案内された時と、同じだ。確かにには、町までの道も、持ち物を売れる場所もわからない。不甲斐なさは募るが、この場も彼らの厚意に甘えるしか、ないのだろう。 町に行けばなんとかなる、と喉まで出かかった強がりの言葉を必死に飲み込んで、は膝を半助の方へと向ける。それから、畳にしっかりと手をついて、深く深く頭を下げた。 「よろしく、お願いします」 ( がんばろうと思えば思うほど、ひとりで立てない自分が不甲斐なくて ) |