09 ひとかけの灯火

秀作とヘムヘムに案内された客間は、広さにして八畳はある綺麗な一室だった。八畳一間にキッチン付きのアパートで兄と二人暮らしをしていたからすると、押し入れに床の間付きの八畳間はあまりに広すぎて、靴を脱ぎ荷物を置かせてもらった後の所在に困ってしまう。
肩身を狭くさせながら、部屋の隅の方に寄るの心境に気が付いているのかいないのか、部屋への案内を終えた秀作は、「それじゃあ、僕は戻りますねー」と笑顔で告げる。そんな秀作を慌てて引き留めると、はリュックサックから取り出した財布の中身を見せ、秀作に尋ねた。

「あの、このあたりで使われているお金は、これとは違うものなんでしょうか?」
「はえ?お金…って、これ、お金なの?」

財布の中から、お札や小銭、それに加えて、これから向かう予定だった異国の 紙幣とコインを手渡し確認してもらうが、それらを見比べる秀作は、首を傾げるばかり。やっぱり、だめか。予想していた反応ではあったが、物珍しいものを見るように、の渡したお札を裏返したり、光にかざしてみたりする秀作の行動に、は肩を落とす。
参考までにと、秀作に見せてもらったこの場所の一般的なお金は、「永楽通宝」と文字の書かれた穴の開いた小銭だった。見た目は五円玉に少し似ているが、の常識の中にあるお金とは全く異なり、むしろ教科書で見た覚えのあるような形に、嫌な予感ばかりが強くなる。

(南蛮に、着物姿の人にこの小銭…やっぱりここは、私のいた時代とは違うのかな)

荒唐無稽ではあるが、自分が暮らしていた場所と、土地が違うだけとは思えない数々の品に、そんな考えまでも頭を過ぎる。言葉に時々英語が混じっていることもあるので、単純な「過去」という訳ではないのかもしれない。けれど、少なくとも性質の悪いいたずらとか、日光江戸村に迷い込んだとか、そんな状況を遥かに超えてしまっているのだと、考えておいたほうが良さそうだ。

「それにしても、すごい細かい細工だねーこういうのって、結構高く売れるんじゃないかなあ」
「それ、売れますか?」
「うーん、売れると思うんだけどなあ。骨董品とか芸術品とか、好きな人も多いから」

秀作がぽろりと零した言葉に、は光明を見た気がした。このお金は使えないけれど、使えるものに替えることができるかもしれない。

「小松田さん、ありがとうございます!」
「え、えっ、なに!?」

兄を探すための第一歩が見いだせた気がして、は感情のまま、秀作の手を取り礼を告げる。その勢いに驚いたのか、秀作は何度も眼を瞬かせ、驚愕の声をあげるのだった。


* * *


秀作との話を終えたは、ヘムヘムに連れられ、客間から少し歩いたところにある一室に招かれた。
離れのような作りをしている建物の中には、先ほど別れた平次が居た。少しばかり眉間にしわを寄せる平次に話を聞くと、どうやらここが平次とヘムヘムの暮らしている場所らしい。
部屋の中に入り、勧められた座布団に腰を下ろすと、どこからともなく盆を持ってきたヘムヘムがお茶を入れてくれる。あまり深く考えてこなかったが、どうやらヘムヘムは「忍犬」を名乗るだけあって、通常の犬とは思えないくらいの動きができるようだ。と平次と自分の分の茶を注ぎ、の隣に正座したヘムヘムを思わず凝視しながら、は礼を告げた。

「客間はどうじゃったかのう。足りないものはなかったか?」
「あ、はい。あんな綺麗で広いお部屋、もったいないくらいです」
「そうか、そうか。それならわしも安心じゃ」
「それに、小松田さんにもとても親切にしていただいて」
「小松田くんが、のう。ヘムヘム、小松田くんは珍しく失敗をしなかったようじゃのう」
「ヘム、ヘム」

ほっほっほっ、と大きな口を開けて笑う平次は、なんだかとても楽しそうだ。部屋に入った時に見た平次の顔は、どこか暗く、苛立たしげな雰囲気が漂っていた が、どうやら今の会話の間に、心境に変化があったらしい。湯気の立つお茶を一口、口に含み、飲み込む。薫り高い緑茶は、ほっと心を温めてくれる味がした。
機嫌の良くなった平次とヘムヘムと、秀作とのやり取りのことや、部屋のことを話していると、障子の向こうから「学園長先生」と呼び声がかかる。聞こえたのは、まだ高さの残る少年のもののようだ。見知らぬ誰かの声に、は自分の身体がびくりと強張るのを感じた。そして、自分の服装を見下ろし、ぎゅっと膝の上で手の平を握る。

「学園長先生、二年い組の池田三郎次です」
「同じく、川西左近です。お夕食をお持ちしました」
「おお、そうか。ご苦労じゃった。…今日は、そこに置いておいてくれるかの」
「え…ここに、ですか?」
「うむ」
「はあ…では、お膳を三つ、こちらに置いておきます」

障子の向こう側で、一瞬声が不思議そうに揺れたものの、カタンと何かを床に置く音と、「失礼しました」と言う声がして、人影は部屋の前から姿を消した。そこで、ようやくは、平次の行動の意味に気が付いた。

(私が、周囲の視線を気にしているから…?)

人影が遠のいたころで、立ち上がったヘムヘムが障子を開けて三膳の食事を運んでくれる。手伝おうと腰を上げるを制したのは、平次だ。ほどなくして整った夕食の支度に、は目頭の奥が熱くなるのを感じた。

「あの…大川さん。ヘムヘムくん」
「ん、どうかしたかのぅ、
「…お二人は、どうしてそんなに親切にしてくださるんですか?」

あのまま、お膳を持ってきてくれた声の主が障子を開けていたら、きっとまたの格好を見て訝しげな眼を向けてきただろう。秀作のように、この場所の常識とは異なる格好をしたに、生暖かい視線を向けてくれる人は、きっと少ない。通常の人間であれば、自分の日常とは違う異端を拒むのは当然のことだ。だから、にはそれを否定することはできないし、止めることもできない。平次やほかの人々にとっての日常を、壊すこともできない。
それなのに、平次は自分の日常を変えてまで、のことを気遣い、訪れた彼らが部屋に入ってこないようにしてくれた。そして、それを察したヘムヘムは、何も言わずに障子の向こう側に置かれた膳を、当たり前のように取りに向かってくれた。
それが、には嬉しくて、同時にどうしようもなく、切なかった。
と平次とヘムヘムが出逢ったのは、ほんの数時間前。彼らはのことを「ヘムヘムの恩人」と言ってくれるけれど、そもそも平次が薬をもらいに行っていたのであれば、の存在は「恩人」と言えるものではないはずだ。なにより、ヘムヘムの病状はおそらく食べ過ぎによるもの。時間が経過すれば自然と快復した可能性は高い。が飲ませた薬が効いたわけでもなければ、の行動が意味を成したわけでもない。

(そんなこと、二人だってわかっているはずなのに)

どうしても答えを見いだせない疑問は、頭の中で大きくなるばかり。それは思わず、口をついて飛び出してしまうほどだった。
問いかけを受けた平次は、ふむと一度頷くと、ヘムヘムが淹れたお茶を口に含んだ。それから、腕を組み思案するように口を噤んで十数秒、片目を開けてヘムヘムの方を見遣る。

「さて、ヘムヘム。お前はどうしてじゃ?」
「ヘム!ヘムヘムヘム!ヘムヘム」
「あの…なんて」
「うむ。ヘムヘムはのう、おぬしが損得なしに自分を助けてくれたことを、とても感謝しているそうじゃ」
「ヘムヘムヘム、ヘムー!」
「それから、のことが好きだから、仲良くしたいと言っておる」

平次の言葉に対して、そのとおり、と言わんばかりに大きく頷くヘムヘム。好き?仲良くしたい?頭の中で平次の言葉を繰り返し、五度目のリフレインのあとで、急激に顔が熱くなる。

「す、好きって…!」
「ヘムヘムー!」
「あ、えっと…その…あ、ありがとう、ヘムヘムくん」

こんな風に、面と向かって「好き」なんて言われたのは、初めてだ。しかも、それを肯定するかのように、ヘムヘムは正座したの膝の上に飛び乗る。あ、可愛い。押しのけることなんて絶対にできない可愛らしい仕草に、ひとまずは熱の集まった頬に手を当て、必死に体温を冷やそうと試みることにした。

「はっはっはっ、これはヘムヘムの勝ちのようじゃのう」
「うう…勝ち負けではないような気がするのですが」
「まあ、ともかく、わしらがおぬしに親切にするのは、おぬしを気に入っているから。それで良いではないか。さあ、夕食が冷めてしまう。頂くとしよう」

平次の提案に、同意するようにヘムヘムが鳴く。それから、ぴょんと自分の膳の前に正座して、両手を合わせた。それに倣うように、も両掌を合わせ、膳の前で瞼を閉じる。

「いただきます」

箸をのばした膳の上の食事は、どれもこれも美味しくて、ただただは平次とヘムヘムに感謝の想いを募らせていった。


( 「好き」だと言ってくれる彼らに、私はなにを返せるだろう )


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