04 かぎろうせかい

「ヘムヘムー!どこじゃー!!」

眠る犬の柔らかな毛並みを撫で続け、どのくらいの時間が経ったころか。遠くから、誰かの名前を呼ぶ大きな声が聞こえた。呼ばれた名前が自分のものでないことに、少しだけ落胆する。けれど、もう一度聞こえた「ヘムヘムー!」という呼び声に、どことなく心当たりがあるような気がして、は頭を捻った。
呼ぶ声は、少し掠れた老人のもののように聞こえた。それから、とても切羽詰っているようにも。声は、だんだんとこちらに近づいてきているようだ。

(ヘムヘム…って、もしかして)

ふと頭に浮かんだのは、目の前で寝息を立てるコートの中の小さな存在。そういえば、先ほど「ヘムヘム」と鳴いていた気がする。
気持ちよさそうにしている寝姿に少しだけ申し訳ない気もしたが、はヘムヘム(仮)の肩に手を乗せ、軽く揺らした。

「ヘムヘム、くん?」
「へむぅ…」
「えっと、起きれる?」
「へむ、へむぅ…?」

薄っすらと開いた瞼を何度か瞬かせて、ヘムヘム(仮)は顔をあげる。前足で器用に眠たげな瞳を擦ると、ヘムーと大きく伸びをした。なんだか、妙に人間らしいその仕草に、は内心感心してしまった。犬って、こんなにすごかったんだ。
上体を起こそうとする背中を支えてやると、ヘムヘム(仮)は嬉しそうに顔を緩めた。眠る前に浮かんでいた険しい表情は見る影もない。薬があったのか、眠ったことがよかったのか、どちらにせよ回復したらしいヘムヘム(仮)の姿に、の頬も自然と綻ぶ。

「あなたのこと、探している人が来てるみたいだよ」

笑みを浮かべたまま、声がした方を指差す。それと同時に、タイミングよく「どこに行ったのじゃ、ヘムヘム…」と力ない声が門扉に近い塀の向こう側から響いた。直後、門の隙間に現れた声の持ち主と思しき人物を見て、ヘムヘム(仮)がキラキラと喜びで溢れた声をあげた。

「ヘムー!」
「ん…ヘムヘム!おお、ここに居ったのか!」

境内から飛び降りたヘムヘム(で間違いないらしい)が、勢いよく走りだす。同じく飛ぶように駆けてくる老人と、思い切り抱き合うヘムヘム。花を飛ばしながらくるくる回る姿は、感動の再会そのものだった。見ているだけのまで、感激してしまう光景だ。二足歩行するヘムヘムに、驚くことすら忘れてしまった。
お互いに涙を流しながらぎゅーっと抱き合い続けたふたりは、しばらくすると手を離して向かい合う。ヘムヘムは二本の足でしっかりと立ったまま、両前足を大きく動かして「ヘムヘムヘムっ」と何かを話しだした。

「ふむふむ。とすると、腹痛で苦しんでおったお前を、その娘が助けてくれたのか」
「ヘムーヘムヘム!」
「そのうえ、薬まで飲ませ、介抱までしてくれたと」
「ヘムヘム!」
「………え?」

寺の境内に座ったまま、一人と一匹の様子を眺めていたは、耳に届いた会話に素っ頓狂な声をあげてしまった。ヘムヘムは、つい先ほどまで抱き合っていた老人の手を引いて、の方へと戻ってくると、ヘムヘムッっ、と前足でをビシッと指差した。

「おぬしがヘムヘムを助けてくれたのか。礼を言うぞ」
「あ、いえ。そんなお礼なんて。たまたま、居合わせただけですから」

に頭を下げた老人は、青を基調とした着物のうえに赤いチョッキを羽織り、優しげな表情で境内の上のを見ていた。慌てて居住まいを正して、も頭を下げる。目の前の老人には、何やらそうしなければならないような、威厳のようなものが漂っていたのだ。
老人は、ふむと小さく頷くと、上から下まで観察するようにを一瞥した。そして、もう一度ふぅむ、と声を漏らす。

「それにしても、おぬし。変わった格好をしておるのぉ」
「変わった格好、ですか?」
「うむ。南蛮の衣装とも違うように見えるが」
「南蛮…」

南蛮と言えば、学校の歴史の授業で聞いたことがある単語だ。現在のヨーロッパや東南アジアのことを指していた記憶がある。それも―――――ずいぶんと昔に、使われていた呼び方だ。
老人の口から飛び出した言葉、門扉の隙間から見えた行き交う人々の姿や荷台の存在に、の頭の中で信じがたい仮定がひとつ浮かび上がる。
まさか、そんな。ありえない。
自分の唇がカサカサに乾いていくのがわかる。ごくり、と喉を上下させ、は掠れた声で老人に尋ねた。

「あの、こんなことを伺うのは失礼なのですが」
「なにかのう」
「私のような恰好をしている人は、珍しいのでしょうか?」
「そうじゃのう、おぬしの格好も、それに持ち物も…このあたりでは見慣れないもののようじゃ。おぬし、どこから来たのじゃ?」

膝の上に乗せた手の平をきつく握りしめる。が自分の住んでいた場所の名前を告げると、老人とヘムヘムは揃って首を捻った。知らない。そんな地名は聞いたことがないと、二人の仕草が告げている。

「それでは、ここは…どこなのでしょうか」

答えを聞くことが、怖い。けれど、尋ねずにはいられなかった。
の余裕のない様子を察したのか、老人とヘムヘムは、一瞬ためらったのち、真剣な表情で土地の名前を口にした。


( それは、わたしの世界がゆらいだ瞬間 )


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