03 落葉するきみとの出逢い

境内に向けて二歩目の足を下ろした瞬間、草を踏む音と重なるようにくしゃりとさらに大きな音が聞こえた。気のせいとは思えないほど、はっきりとした音に、は周囲を見渡す。少し傾いて寂れたお寺、足首くらいの高さまで伸びた原っぱと立派に育った木々、そしてそれらを囲むところどころ崩れ落ちた塀。
ぐるりと視線を彷徨わせ、斜めに外れたほとんど意味をなさない門扉に目が止まる。門の大きな隙間からは、塀の向こう側が見える。乾いた砂色の道と、それに沿うように生える野草。時折、行き交う人の影もみえた。それから、ガラガラと聞こえる車輪の音。そのふたつに、は、ん?と首を傾げる。

(着物に…荷台?しかも人力?)

自分たちが住んでいた地域では、あまり見慣れないものが何度も行き来しているように見えたのは、気のせいだろうか。うーん、とその場で腕を組み考え始めると、今度は「へむぅ…」と何かが唸るような、呻くような声が聞こえた。どうやら、丁度門のある方向から鳴ったようだ。一瞬、得体のしれない雰囲気に躊躇っただったが、聞こえた声に力がなかったことが気にかかり、小走りで門の方へと足を向ける。
一歩、一歩と音のした方へと近づくと、ある一カ所だけ、繁った草が凹んでいる部分があることに気付く。

「あ…!」

雑草の隙間から見えた、色の白い何かに、思わず駆け寄る。足だ。何か、生き物の足。何か、誰かが倒れている。

「だ、大丈夫?」
「へ、へむ…っ」

倒れていたのは、薄い色の毛並みの犬、のようだった。へたっと折れた二つの耳に長い尻尾。頭に浅黄色の布を被って、へむ、と不思議な声で吠えてはいるけれども、恐らく犬。
倒れていたその犬は、額に脂汗を浮かべ、お腹のあたりを押さえていた。小さな身体をくの字に曲げて、苦しそうに眼をぎゅっと閉じている。
――――大変だ。
なぜ犬が前足でお腹を押さえているのか、とか変わったな鳴き声だ、とか気になるところは大いにあったが、そんなことよりもこの子を休ませなければ。佐倉は自分の着ていたコートを脱ぐと、それで包むように犬の身体を抱き上げた。できるだけ揺らさないよう、ゆっくりと境内の方へと運ぶ。その途中、腕の中のわんこが不思議そうに「へむぅぅ」と小さく鳴いていたが、今は気にする余裕もなかった。
腕の中に感じるのは、見た目以上に軽く、温かな体温。大丈夫、大丈夫だよ。そう伝えたくて、両腕に込める力を少しだけ強くする。コートの隙間から見えた犬が、少しこちらを見上げた気がした。

寺の境内はそこかしこの板が外れてしまっていたりと、あまり良い状態ではなかったけれど、お賽銭箱のすぐ傍に比較的床板の綺麗な部分を見つけ、コートごと犬を寝かせる。それから、背負っていたリュックサックを降ろし、脇の小さなポケットからハンカチとポーチを取り出した。は必ず鞄の中の小さなポーチに、常備用の薬といくつかの飴玉を入れることにしている。薬はいざという時に役立つし、飴玉は小腹が減った時に重宝するのだ。いざ、なんて時は今までにほとんどなかったけれど、変わらず持ち続けていてよかったと、自分の行動に少しだけ感謝した。
常備薬は、頭痛薬に酔い止め、風邪薬、それから胃腸薬。旅行前に、新しいものに入れ替えたそれを一錠取り出して、は少しだけ考える。薬箱には、確か一回大人一錠と記載があった。だったら、とは錠剤を口元に運び、自分の八重歯で思い切り噛み砕いた。

(大人で一錠の薬を、身体の小さい子に全部飲ませたら良くない、はず)

小さいころ、兄が自分に薬を飲ませてくれた時も、こんな風にしてくれた。特には苦い薬が苦手だったこともあり、風邪をひいても薬を飲むことを嫌がった。そんな時、兄は薬を少し自分の口に含み、それからに残りの薬を飲ませてくれた。健康な兄が薬を飲むなんて、本当は良くないことだと今の自分ならわかるけれど、幼い時分は、苦い薬を少しだけ肩代わりしてくれる兄の行為が、嬉しくて仕方なかった。
だから、というわけでもないけれど、噛み砕いた半分の薬をそのまま自分で飲み込んで、残った半分を手の平に乗せ、腹痛に耐える犬の口元に運んだ。

「これ、薬だから、飲んで」
「へ、ヘムヘム?」
「大丈夫、苦くないよ。お腹の痛いのに効くから」

ね、と小さく微笑むと、の方を見上げていた犬は、目線をの手の平に移し、ぱくりと薬の欠片に食いついた。
ごくんと薬を飲みこんだことを確認して、はコートの裾を手繰り寄せてわんこのお腹あたりに被せてやる。それから、額に滲んだ汗を畳んだハンカチでそっと拭った。いいこ、いいこ。小さい子供の頭を撫でるみたいに、ゆっくりとハンカチを動かすと、コートの中の苦しそうな表情が少しだけ和らいだ気がした。
薬を飲ませたとはいっても、ただの胃腸薬なうえ、人間用の薬だ。この子相手にどこまで効果があるかどうかはわからない。もし、少し待ってみても状態が良くならないようなら、お医者さんに連れて行こう。そう考えながら、は右手を動かし続ける。風邪をひいたとき、体調を崩したとき、ひとりでいることはとても寂しいから、こうして誰かに触れられることがは好きだった。それに、兄曰く「手当て」という行為にも多少の治癒効果があるのだとか。真偽のほどはこの際おいておくとして、だんだんと表情が落ち着いてきた様子を窺うかぎり、何かしらの因果関係もあるのかもしれない。
五分、十分と経過するにつれて、「ヘムヘムー」と漏れる鳴き声に明るさが籠ってくる。薬が合ったのかな。そう思うと、の口からも安心して長い息が零れ落ちた。さらにしばらくすると、すーすーと規則的な吐息の音が聞こえ、自然と口元が綻んでくる。

(よかった)

さきほどより、表情も顔色も良くなっているし、押さえ続けていたお腹からも手が離れている。きっと、もう大丈夫だろう。 眠りの邪魔にならないようにと、ハンカチを持った手を引っ込めると、何かが邪魔するように引っかかった。なんだろう。首を傾げ、まじまじと自分の右袖を覗き込み、思わず微笑ってしまった。
の右手の行方を阻んでいたのは、しっかりと袖を掴んで離さない、寝息をたてる犬の小さな前足。小さな小さな手からしっかりと伝わってくる彼、もしくは彼女の思いに応えるように、はもう一度、柔らかな頭にそっと手を伸ばした。


( 「手当て」は、きっと手当てをする人にとっても、優しい )


( 02 top 04 )