02 春陽、規格外の迷子

車に轢かれる衝撃とは、どんなものなんだろう。
ぎゅっと瞼に力を入れたまま、は体を強張らせ衝撃を待つ。
これまでの人生の中で、は大きな怪我をしたことがない。だから、喧嘩が趣味の(ような)兄と比較して、自分はあまり痛みに耐性がないように思えた。怪我らしい怪我といえば、小学校高学年のころに負った捻挫くらいだろうか。きっと、いや間違いなく、捻挫とは比較にならないくらいの痛みなんだろうな。そもそも、痛い、くらいで済めばいいけれど。

「…………?」

人間、危機的な状況に陥ると、時間の流れが遅く感じるそうで、先ほども周囲のスピードがゆっくりと進んでいるように見えた。
けれど、それにしても、遅い。
眼を閉じる前、車は目の前まで迫っていた。それならば、もうそろそろ打つかっても良いのではないだろうか。
それとも、こんなことを考えた次の瞬間に凄い衝撃が襲ってくる、とか?
そうこう考えているうちに、頭の中で十を十回ほど数え終わってしまった気がして、は少しずつ、瞼に込めた力を抜いて、恐る恐る眼を開く。

「あ、れ…?」

左。右。もう一度、左。それから正面。
念のため、足元にも目を向けて自分の手元に、借り物のキャリーバッグがあることを確認してから、空も見上げてみた。澄み切った空には、綿のような薄い雲がところどころ浮かんで見える。気持ちの良い春空だ。そういえば、吹く風も心地よく、緑の香りがする。薫風というやつだ。うん、気持ちがいい。

「…暖かい。」

というか、春だ。草木が生い茂る、新緑の季節。少なくとも、厚手のコートを着るような季節ではない。
その上、もう一度見渡してみた周囲の景色がなんだかおかしい。並んでいたはずのバス停もないし、道路もアスファルトの道も見当たらない。もちろん、目の前に迫っていたはずの車すら、見つけられない。
足元には、サワサワと風に揺れる若草が繁り、芳しい花の香りが鼻を擽る。バス停の代わりにそびえ立っているものといえば、青い葉で溢れた立派な幹の大樹。それから、少し寂れた雰囲気の、お寺。

「……お兄、ちゃん?」

車のほかにもうひとつ、自分に近づいていた存在の名前を呼ぶ。兄は、間違いなく自分の名前を呼んでいた。手を伸ばしていた。仮に車が迫っていたことが夢だったとしても、それだけは間違えようがない。
なのに、ここには誰もいない。旅行鞄を肩にかけた、兄の姿も、何もかも。

「………………わたし、迷子?」

眼を開けたら、閉じる前とは違う場所。
こんなことって、あるんだろうか。もう一度、周囲を見渡してみてから、は小さく首を傾げた。

「知らない場所にいる…ってことは、やっぱり迷子?」

いやいや、迷子にしてもおかしくはないだろうか。眼を開けたら違う場所なんて、そんなの普通じゃあない。
自分で口にしたことに自分で突っ込むことほど空しいことはないけれど、思わずそんな突っ込みが頭の中を駆け巡る。おかしい。おかしいけれど、確かに目を閉じる前と今と、自分のいる場所が明らかに違うことは事実。うーん、としばらく悩んだのち、とりあえず「やっぱり自分は迷子である」という結論に落ち着くことにした。今、自分がいる場所がわからないという意味では、迷子とさして変わる立場でもないはずだ。

(迷子になったら、その場から動かない)

旅行の前日、兄と確認した約束事を思い出す。見知らぬ土地で迷子になったら、絶対にその場から動かないこと。それから、携帯電話で連絡をし、兄か伯父か伯母が迎えに来るのを必ず待つこと。今回のこれがそれに当てはまるかどうかは、疑問の残るところではあるけれど、下手に動くと兄と余計にはぐれる可能性が高いのも事実。
はぐれた。そう、はぐれただけなのだ、と信じて、はコートのポケットに手を入れる。取り出したのは、先ほど使ったばかりの携帯電話。画面を見てみると、新着メールも着信の表示もない。そのうえ、バス停の前では三本確かに立っていたはずの電波表示には、圏外の二文字。やっぱり、おかしい。
あの兄が、自分とはぐれて何の連絡もいれないなんて。それに、こんな開けた場所なのに、電波の一本も立たないなんて。ましてや――――こんなに空が、開けているなんて。
見上げた空は、青く澄み切っているだけでなく、電線も、遠くそびえる高いビルも、なにもなかった。ただ、ひたすらに雲が流れ、鳥が飛び交うだけ。こんな青天、林間学校で行ったキャンプ場でしか見たことがない。

「お兄ちゃん…お兄ちゃん?」

無駄だとわかっていながら、携帯電話の短縮ボタンと通話ボタンを順番に押してみるけれど、通話口から聞こえてくるのは単調的な機械音だけ。これは、本格的に、どうしようもないくらい、おかしい。

とにかく、この場所に自分が来る直前に、兄がすぐそばにいたことは事実なのだ。まずは兄の行方を探し、合流することを考えなければ。は携帯電話の通話を切ると、しっかりとポケットに収めてから、左腕の時計に目を向ける。ひとまず、一時間くらいここで待ってみよう。幸い、ここは寂れてはいるもののお寺のようで、腰を落ち着けられそうな境内もある。待ってみて、なにも変わらないようであれば、近くをぐるりと探してみよう。
ぐるぐるぐると「おかしい」の4文字が駆け巡る頭の中で何とか予定を立て、佐倉はキャリーバッグを持つ手に力を込めた。

一歩、前へと進めた足は草を踏みしめ、くしゃりと乾いた音が鳴った。


( 春の風は暖かいのに、私の中にはぽっかり隙間ができたよう )


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