すくいあげられたのは彼女か それとも彼か



その日、ミドルポートに程近い遠洋は耳に痛いほどに凪いでいた。
大海には水面を切って進む航跡によって起こった白い波だけが揺らぎ、マストに結ばれた細いロープと戯れるだけの風も吹いていない。
こんな海は久しぶりだな、と淡い榛色の髪の青年は穏やかな海面を眺め思い馳せた。

「スノウ」
。ああ、もう時間かい?」

背後から声をかけられ振り返った青年 ― スノウ ― は、いつの間にか随分と高くなっていた太陽の位置を見上げ、自分が長いこと無心に海を眺めていたことに気付いた。次の見張りはだったのか。そんなことすら忘れているなんて、これじゃあ見張りの意味がなかったかな。ひとり心内で失笑していると、不思議そうに自分を見つめるの碧い瞳とかちあって、余計に苦笑いがこぼれてしまった。
スノウとが現在訓練のため乗り込んでいるガイエン騎士団の訓練船は、訓練生がおよそ4時間交代で見張りを行っている。スノウの今日の当番は第1組。夜中の時間帯は夜間担当の訓練生が兼任するため、朝日が昇ったころから昼前までが担当だ。これから次の4時間は、今しがた現われたがこの場の見張りを担当することとなる。もう、何度も何度も経験している訓練の一環だ。

「今日は穏やかなものだよ。波もないし、何事もなく終わりそうだ」
「うん、そうだね」
「昨日…この近くで落雷があったらしいけど、嘘みたいだな。
 そうだ、。聞いたかい?その雷で一隻、小型の客船が行方不明になっているらしいね」

視線を海へと向けたまま、背中を船の手すりに預けてスノウが言った。次の4時間、彼には休憩が与えられているのだが、どうやらしばらくここでと話をしていくつもりらしい。
スノウと同じように彼方、水平線の方へと目を向けたは、照りつける太陽の眩しさに目を細める。スノウが口にした落雷と客船の話は、ついさっき他の訓練生が話しているのを耳にして知っていた。広い海において、客船が難破するということはそれほど頻繁に起こる、というわけではないが珍しいことでもない。噂の真偽に関わらず、そうした話が出回ることはこれが初めてではなかった。だが、実際に海の様子を見て、は「あれ?」と妙な違和感を感じた。彼の言うとおりほんの数時間前に一帆船を難破させるほどの落雷が起こったとは思えないほどに、目の前の海は穏やかだったのだ。
海の上では、表われたとたんにすぐ消えるような積乱雲による短時間の嵐がないわけではないが、たとえ直接の被害が一瞬だったとしても過ぎ去った後にはそれとわかる痕跡が残るのが普通だ。波の具合や、遠くの雲の形。船が難破したのであれば、樽や竜骨の残骸など、そうした小さな変化を見つけ航海におけるリスクを抑えることも、海での監視を行うことも多いガイエン騎士団の訓練生には必須のスキルだった。
だからこそ、は不思議で仕方がなかった。訓練生の間で噂が起こっているということは、昨日の見張りの誰かがそれを目撃したか、陸からの連絡があったということ。客船の有無に関しては、落雷の起こった場所と時刻からその付近を航海していた可能性のある船がいたかどうかを出港記録から判断するしかないが、こうも明確に情報が飛び交っている以上はおそらくこちらにもある程度の根拠があるのだろう。
それなのに、目の前に広がる海にはそんな痕跡の欠片もない。
どうしてなんだろう。素直にが首を傾げると、隣でスノウが軽く笑った。

「考えすぎだよ、。海が穏やかなのはいいことじゃないか」
「それは…そうだけど」
「客船の話だって、勘違いかもしれないだろ?そんなに気にしてたら、体がま、い……ッ!!!」
「え?」

唐突に声を荒げたスノウは、手すりから体を乗り出すようにして右前方の方角を指差した。その線の先へと視線を動かしたは、彼が見つけたものに気付き腰に提げた望遠鏡を覗きこむ。小さな視界の中で拡大されたそれは彼らが思ったとおりのもので、はすぐさまブリッジへと声を張り上げた。


「面舵15!北東方向に人影!!」


ふわり、不意に吹いた一陣の風が、の薄い茶髪をかすめて通り抜けていった。





「おんな、のこ…?」

他の訓練生の力も借りて海から引き上げられたのは、自分とさして歳の変わらないように見えるひとりの少女だった。
彼女を発見し、引き上げの指示を行ったとスノウを中心に野次馬の如く集まった幾人かの訓練生たちに見守られた少女は、か細いながらも息をしていて脈もあった。
けれど海を漂流していた所為もあってか、長い黒髪は海水で濡れ彼女の白い頬にぺったり張り付いていたし、淡いブルーのワンピースも体の線がはっきりと見て取れるほど水を含み、肌に隙間なく触れていた。微かに開かれた唇は青紫色に変色してしまっており、それどころか身体全体の血の巡りが悪いようだった。は近場にいた後輩に、倉庫から余った毛布を出来るだけもってくるように頼むと、彼女の顔の傍らに膝をついた。

遠く、海を漂っていた彼女は板の切れ端に掴まっていた。彼女と一緒に引き上げた切れ端は船の側面の一部のように見受けられた。板の一部に染料で文字のようなものが描かれていたのだ。焼け焦げたように黒く変色してしまっていてなんと書かれていたのかを判別することはできなかったけれど、それに彼女の現状と発見された海域をあわせれば、説明を受けなくとも彼女が一体どんな状況にあったのか訓練生の殆んどに推測できた。
そしてそれを理解した訓練生の大半が、眉を落として哀れむように彼女を見ていた。
彼らの視線に気付いたは、むっと自分の眉間に力が籠もった気がして、慌てて少女の肩に手を伸ばそうとした。が、が彼女に触れるより先に、向かい側にしゃがみこんでいたスノウの手が彼女の肩に伸ばされた。

「きみ、きみ!しっかりするんだ、きみ!」
「う…」
「「!!」」

数度肩を揺すると、少女はスノウの呼びかけに反応を示した。
微かに震える口元から吐き出された声音はひどく小さく弱弱しかったが、少女が確実に生きているという証にスノウももほっと安堵の息を吐く。スノウがもう一度肩を揺すり声をかけると、滴を乗せた睫毛が僅かに震えた。

ゆっくりと開かれていく瞼の隙間から見えた色に、は目が離せなかった。


「…ク…さ、…?」
「え…?」


掠れた声でそれだけを呟くと、再び少女は太陽の光を反射して虹色に煌めく瞳を静かに閉じた。





それは、彼女が永きにわたって後悔し続ける彼との出逢いで、
それが、彼が決して忘れることのできない奇蹟との邂逅だった。

 

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  多分船の見張りとかって、そんなもんで交代するんじゃないかなーと。
  細かい部分はかなり捏造がありますので、見つけたら笑って見逃してやってくださいませorz