繋がれた手



「う…、ん」

微睡む黒と白の世界から抜け出すようにゆっくりゆっくりと右目を開くと、ぶれる視界が荒い木目の天井を捉えた。
こんなふうに目が覚めるのも、これで4回目かあ。
見知らぬ天井のある場所で気が付くなんて特異な現象にも大分慣れてきたなあ、と左目を開きながらは思った。人間の適応能力とはかくも恐ろしいもので、自分の居場所も現状もわからないと言う状況でありながらも、はさして慌てることなくぐるりと眼球を動かして周囲を観察することができた。妙なところで変に成長してしまったものだ。
頭を動かさずに見える範囲だけでは部屋の全貌まではわからなかったが、天井に吊るされた灯りがゆらゆらと揺れているのを見る限りどこか船の中なのだということが窺えた。もしかして、客船の部屋の中に運ばれたんだろうか。船酔いで倒れたとかで。なんて詮の無いことをぼおっとした頭で考えていると、天井に向けたままだったの視界に人の顔が割り込んできた。

(ファラ?)

まるで記憶を巻き戻して、もう一度やりなおしたような光景には目を瞠った。
けれど、当然のことながら彼女の視界に現れたのは白銀の髪と紅玉の瞳を持った少女ではなく。大きく開かれた瞳は、肩を落とすようにふっと細められていく。バカだ、私。あの日の彼女と同じように、ベッドに眠った自分を覗き込んできた少年の顔を見ては自身の愚かさを疎まずにはいられなかった。

「よかった、目が覚めた」

ほっと素直な感情で顔を弛め、柔らかい褐色の髪をした少年はの額に手のひらを当てた。どうやら、熱を測っているらしい。なんだかこんなところも懐かしいな。少年の次の言葉を待ちながら、は懐かしい記憶に思い馳せる。
しばらくして額から手を外すと、少年は凪いだ海のように穏やかな声音で言った。

「熱はないみたいだね。どこか、痛いところとかはない?」
「あ、はい。大丈夫です」

身体を起こそうとすると、無理しないでいいよ、と少年は若干慌てた様子を見せる。が、それでもが大丈夫だと言い張ると苦笑しつつも腕を貸してくれた。

「ありがとうございます」
「どういたしまして。それより、本当に身体は大丈夫?」
「…特に、痛いところとかはないみたいなので、大丈夫だと思います。
 それより…私、海を漂流してたん、ですよね」

戸惑いつつも尋ねると、少年は一瞬躊躇ったようではあったが小さくけれどはっきりと頷いた。
彼の表情を見れば、そして自分の記憶を思い返してみれば、あの客船がどうなってしまったのかは手に取るように簡単にわかった。それを信じることは、まだには難しかったけれど。けれど、否定する理由などやっぱりどこにも在りはしなくて、は結局小さな声で少年に尋ねた。

「助かったのは…私、だけなんですね」
「…うん。落雷があった周辺海域を巡回したけど、きみ以外は生存者も船の欠片も、見つかってない」
「そう、ですか」

言葉にして告げられれば少しは実感も湧くかと思えば、感情というものはそう簡単にいかないらしい。生存者も欠片もないと言われまず脳裏を過ぎったのは、乗船してからずっと自分を気にかけてくれていた船長さんの大きな手のひらだった。手のひらは硬くごつごつしていて、お世辞にも気持ちよいとはいえなかった。けれど、の頭をくしゃりと優しく撫でていった温もりと、豪快な笑顔に嘘はなかった。
たった2日。総時間にしたら、2時間にも満たないくらいだったけれど、簡単に忘れて切り捨てられるほど赤の他人ではなかったから。
繋がる台詞を見つけられないまま、は布団の上の手のひらをみつめた。それがまたも掴みそこねた沢山のものが時間を透かして見えた気がして、は思い切り拳を握る。
少年のひとまわり大きな手が重ねられたのは、丁度その時だった。

「無理、しないでいいよ。…大丈夫なんて、誰も押し付けたりしないから」

自分の外見年齢と大して変わらない年頃に見えるのに、どうしてこんなに落ち着いていられるのかな。
彼の気遣いに、遠慮なしに浮かび上がってきてしまう安堵感を抱きながらはそんなことを考えてしまった。それくらいに、自分を介抱してくれている少年は冷静に見えたのだ。
顔を上げ、彼の顔を正面から真っ直ぐに捉える。もう随分と前に、ブラウン管越しに観た南国の海のようなエメラルドグリーンの瞳が、室内の仄かな明かりを吸い込んでとても綺麗だとは思った。
いつまで見続けていても飽きそうもない輝きを名残惜しく感じながら、は深く頭を下げた。

「私はといいます。助けて頂いて…本当にありがとうございました」
「そんなこと、気にしないでいいよ」
「でも…あのまま見つけてもらえなかった、私もきっと、助からなかったと思います」

それは大げさな喩え話ではなかったからだろうか、再び顔を上げたときに見えた少年の顔はどこか不自然に強張ってしまっていた。後悔なんてしたところで遅いのだが、もう少し言葉を選べばよかったかな、と自分の配慮の無さをやっぱり悔やんでしまう。
そんな感情を籠めて曖昧に笑うと、少年も同じように微笑んでくれた。

「だったら、お礼は俺じゃなくてスノウにも言ってあげて。きみを最初に見つけたのは、スノウなんだ」
「スノウ?」
「うん。俺と同じ訓練生のひとりだよ。
 …って、あれ?もしかして俺、自己紹介してなかったかな。ごめんね、うっかりしてた」

きみは、ちゃんと名乗ってくれたのにね。
少しだけ、ワザとらしくはにかんで少年が言う。そんな仕草と表情が、あの時の彼にちょっとだけ似ていた。


「俺は。ラズリルのガイエン騎士団の訓練生なんだ。よろしくね、


差し出された手を数拍眺めてしまっていたら、に小さく首を傾げられてしまった。それでようやく彼の意図に気付けたはまた数秒停止して、それから彼の手に自分のそれを重ね、握った。
満足気に握る力を少し強めた彼は、って呼んでね、とふわりと顔を綻ばせた。