はじまりのきみはいっそ清々しく
ひかりとやみのなかで、何かが名前を呼んでいる。
いったいだれが?
いったいなんのために?
応えは当然戻っては来なかったけれど、代わりに左手が寂しく疼いた。
「ッ!!」
ガタン。
大きな音と頭に響いた鈍い痛みに、は目を覚ました。
「いったー…」
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
どこかにぶつけたらしい頭を押さえるを見かねたのか、少し離れた場所に居た青年が心配そうに尋ねてくる。「大丈夫ですよ」と右手を振って応じると、青年はほっと表情を弛めて奥の甲板へと戻っていった。どうやら、そこが彼の持ち場のようだ。
青年の視線が再び船の外へと向かったことを確認してから、は空にむけて思い切り腕を伸ばした。手のひらが指し示す先には一面の青。雲ひとつない空が、遠くどこまでも広がっている。そして空は彼方で、碧い海に繋がっていた。
は今 ――――――― 海に浮かぶ船の上に居た。
ゆらゆらと自身の動きとは無関係に揺らぐ身体を船縁に預け、は高い空を見上げる。陸を離れ海に出てから、かれこれ2日と少し。こうして空を眺めるのももう何度目かわからないくらいだったが、はこうして船の上から眺める空が好きだった。障害物のないこの場所で見る空は、街で見るよりも、草原でみるよりも、何所でみるよりも広く、大きく、蒼かったからだ。
とはいえ、がこうして幾度も空を見上げに甲板を訪れるのには理由があった。当然のことながら、切符を買って船に乗っているには個別に与えられた部屋(といっても他の乗客と相部屋ではあるが)がある。部屋は、一般客室ということもありベッド2つで殆んどが埋まってしまうくらいの広さではあったが、布団はそれなりに柔らかく値段の安い客船の割にはかなり綺麗に掃除されていた。寛ぐ、という目的のためならば甲板などより自室にいたほうが幾らも快適だろう。長い船旅の合間に外に出る乗客は多いが、のように常に甲板に居座っている客は少ない。その点で、は甲板にいる乗組員の殆どに顔を覚えられていた。
そして、どうしてがここにいるのか、ということも当然のように知れ渡っていた。
「よう、嬢ちゃん。気分はどうだい」
「船長さん…」
船首の方から近づいてくる気配に、は船縁に体重を預けたまま首を回した。そこにいたのは恰幅の良い体躯と耳から顎にかけてたっぷりの黒髭を蓄えた初老の男性、この船の船長だった。白と赤のボーダーシャツに黒のズボンというの頭の中の「海の男」をそのまま体現したような彼は、髭でほとんど隠れてしまっている口元を綻ばせると、目線を合わせるようにしゃがみこんでの頭をがしがしと撫でまわした。
「なんだあ、その面は!海に出てもう2日も経ってんだぞ」
「そんなこと言われても…慣れないものは慣れないんですよ」
「そういう時は吐いちまえたほうが楽なんだがなあ…嬢ちゃんはどうにも中途半端で悪い」
そんなこと言われたって。呆れたようにため息を吐く船長に、の方が嘆息したくなる。けれど口惜しいことに、大きく息を吐く元気も文句を言う気力も、正直今のにはまったく残っていなかった。
「嬢ちゃんみたいな船酔いは、性質が悪そうだなあ」
そう。「船酔い」というたったの3文字で表されるその症状に、は現在苦しめられていた。
港を出て、しばらくは問題がなかった。けれど、徐々に波の高い沖へと進んで行くに従って大きく揺れるようになっていった船体の動きには完全に呑まれてしまったのだ。気が付いたときには頭と身体が常にどんよりと揺れていて、胸の奥のほうにずどんと何か重たいものが居座っていた。体を占めるのは晴れることのない嫌悪感と倦怠感。はじめのうちは部屋で横になっていたのだが、それよりも風に吹かれる室外に居たほうが症状が悪化しないことに気付いてからは、は1日の大半を甲板で過ごすようになっていた。これまでも何度か船に乗った経験はあるのだが、今回ほど酔ったことはなかったのに。人間の体調って結構コロコロ変わるんだな。まさに人体の神秘である。正直、欠片も嬉しくはないが。
つい先ほども甲板のすみで療養していたのだが、そのうちにいつのまにか寝ていたらしく柵に頭を打って目を覚ましたらしい。眠ったことで多少は胸のむかつきが収まってはいたが、それでも全快には程遠い。鉛のようにずしりとする体で、は弱弱しく呟いた。
「ご迷惑おかけして…すみません」
「まあ、気にすんな!もっと性質の悪い客だって山ほどいるからな。長年船乗りやってるオレからすりゃ、嬢ちゃんなんか可愛いもんだ」
「…ありがとうございます」
「おうよ。
ところで嬢ちゃん。港で一緒に待ってたもうひとりのぺっぴんさんはどうした?部屋で寝てるのかい」
べっぴんさん?言われた言葉が一瞬理解できなかっただったが、鈍い頭をしばらく巡らせたあとで、ようやく思い立ったように「あっ」と声を漏らした。
「彼女でしたら、船に乗る前に別れたんですよ。元々目的が違ってたので…彼女は別の船で北の方へ向かわれましたよ」
「北って、大丈夫なのかあ?あんなか弱そうなお嬢さんひとりで…嬢ちゃんが護衛だったんだろう」
どうやら本気で心配してくれているらしい船長の声音に、はあははと曖昧に笑うしかなった。
(べっぴんさんに、か弱そうなお嬢さん…似合ってるんだけど、ねえ)
彼女が美しいことも、お嬢さんと称するに可笑しくない外見であることも間違いはないのだけれど、本人の素を知っているからすれば、どうにも彼女に宛がうには相応しくない形容詞に思え、益々笑顔は引き攣った。
もっとも、原因の一端は間違いなく彼女が猫を被って船長相手に切符を値切っていたことにもあるのだが、その恩恵に自身があやかっているので文句はいえない。いわんやあやかっていなくても、である。
「おいおい、ほんとに大丈夫なのかあ?いいとこのお嬢さんなんだろう」
「いえ…本当に大丈夫なんです。街で、別の護衛を頼んできましたから」
「それならいいんだが…」
(安心して下さい、船長さん。ああ見えて、あの方は私より何百歳も年上で何倍もお強いですから)
心のうちで呟いた言葉は決して口にはできないが、のあまりにあっさりとした態度にようやく納得したらしく、船長はおもむろに立ち上がると船尾の方へと目を向ける。確か目的の港まで予定で1週間。天候は安定しているから予定よりも若干早く到着するだろうと、船の軌跡を眺めながら船長が言った。密かに「あと5日近くあるのか」と泣きたくなったではあったが、出来る限りそんな素振りは見せないように「そうですか」と力なく微笑んだ。
刹那、は自身の左手が激しく熱を持ったのを、はっきりと感じた。
「ッ?!」
「船長!!前方に、船影です!」
「何ぃっ?!」
船員の呼び声に駆け足で船首の方へと向かう船長の背中を見送りながら、は尚も疼き続ける左手をきつく握った。さっきみた夢なんて、気のせいだと思っていたのに。鼓動に合わせてどくんどくんと弾ける内側が、に何かを伝えようと叫んでいるかのようだった。
まさか、そんなこと。
苛立たしげに顔を歪め、は船縁を支えに揺れる船体の上でなんとか立ち上がり、船長が向かった方向へと目をやった。遠く水平線の近くに、何かがみえる。今はまだ遠いが、徐々に大きくなって近づいてくるあれが、原因なのだろうか。
「…なに、あれ」
まだ握り拳程度の大きさにしか見えない船影を眺めていたは、ふいに視界に入り込んできた黒い色にただ呆然と呟いた。に遅れること数拍、幾人もの乗組員たちが彼女と同じように引き攣った声で信じられないと呟き、それから船長の「取り舵いっぱい!!」というかけ声に慌てて甲板の上を駆け回り始めた。
「雨雲…なの?」
船影と同じ方角の空になんの前兆もなく表われたのは、どす黒い色をした雲のような塊だった。だが、雨雲と呼ぶにはあまりにも小さく纏まり過ぎていて、どちらかと言えば新種のモンスター(たとえばもさもさの親戚とか)だと言われたほうがには信じられるような気がした。
ほんのすこし上から力を加えれば今にも落ちてきそうな黒の塊は、船影よりも早くの乗る客船へと近づいてくる。甲板は上を下への大騒ぎで、船乗りたちが帆を閉じたり樽や木箱を柵に括りつけたり艦内へ移動させたりと大混乱だ。しばらくすると、外側へと向かう緩やかな遠心力を利かせて船は暗雲から遠ざかるように進行方向を変化させていた。両者の間には十分な距離が空いていたため、を含む甲板にいる誰もが、これで目下の問題はある程度免れた、と思った。
けれど、奇妙なことにその雲はまるで客船を追いかけるように向きを変え、あろうことか先よりも早いスピードで迫ってきた。
「舵取り!もっと思いっきり舵をきれ!!」
「船長、おかしいですよ、あの雨雲!!…間に合いませんッ」
瞬きの間に客船間近へとやってきた暗雲は、空を一瞬のうちに黒に染めあげ海の色すら呑み込んだ。けれど不思議なことに、船は雲の真下に入ったにも関わらず揺れが大きくなるどころか、風は凪ぎ、生ぬるい空気と静寂だけがあたりに溢れかえっていた。
何事も起こらないことに、誰かが安堵の声を漏らしかけたその時、
の左腕が、これまでとは明らかに異なる強さで、静かに啼いた。
同刻、天から振り落とされた赤黒い光に劈かれ、彼女らの乗った客船は海の上から姿を消した。
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物語は海の畔から始まります。とりあえずは、遭難から(笑)