本当だったら、来週には近所の中学校に最上級生として通うはずだった。
微妙に散り始めてる桜道を通り抜けて、もうさすがに着慣れた制服に身を包み、仲の良い同級生や幼馴染と中学最後のクラスについて話したり、これから本格化する高校受験に向けて少しドキドキしてみたり。
大人と子供の境界線で、変わらない日常に文句を言って。だけど些細な変化に戸惑ったりしながら、毎日を当たり前に過ごすはずだったのだ。

私……いったい何処で道を誤ったんだろう?





「じゃあ、行ってくるね」
「気をつけるのよ、ちゃん。忘れ物はない?ちゃんとハンカチも持った?」
「遠足じゃないんだから…それに、寮に行くのに忘れ物してたら大変だって、昨日三回も確認したでしょ」
「でもでも…ああ、お母さん心配だわ。今年から再開なんでしょう、その学校。ちゃんが一期生だなんて…お母さん心配だわぁ」
「一期生じゃないよ。ひとつ上も通うから、二期生だって書いてあったじゃん」
「でもでもっ」

玄関に座って靴紐を結ぶ私の横で、お母さんはさっきからおんなじことばっかり繰り返してた。
先日――私は人間じゃなくて『ベアリエント』とか言うわけのわからない生き物なのだと宣告されたあの日――届いた手紙に書かれた学校への入学日は、一般の中学校の始業式より一週間ほど早かった。
本当なら、今日はまだまだ中学生最後の春休みを満喫しているはずの日なのに、私はめっさ早起きして出かける準備をしている(ちなみにまだ朝の六時だ)
頭には、猫耳を隠すための大きめの野球帽。手には某有名スポーツブランドの大きめドラムバッグ。大きいといっても、これに入ってるのは筆記用具と着替えと、その他生活用品だけだ。案内によれば、学校の授業に必要なものは学校側で用意してくれるらしい。そのくせ学費が公立の中学より安いなんて、どういう学校だ。

「そんなに心配しなくても、ちゃんと春休みには帰ってくるから平気だよ。お母さんこそ、家の戸締りちゃんとして、気をつけて生活してよね」
ちゃ〜んっ」
「じゃ、いってきまーす」

左肩にドラムバック。右手には手紙の中の三枚目。
握った拳で扉を押し開けて、私はまだ少し肌寒い外に出た。



「えーっと…まず、家を出たら左手方向に進み、四本目の角を右に曲がる」

後ろで玄関が無情に閉った音を聞きながら、右手に持った紙に目を通す。
届いた手紙は、一枚目には学校の簡単な説明と概要が、二枚目には必要な持ち物とか一年間の大まかな流れが書いてあった(二期制で夏冬春に休みがあるとかくらい)そして、私が今持っているのが三枚目。これには、学校まで私を連れてってくれる(らしい)電車が停まる駅までの道のりが箇条書きで記されている。
その指示に従って、真っ直ぐな道をしばらく進む。

「……………四、を右っと。
 その道を直進し…さらに三本目のタバコ屋の角を右へ」

なんというか…随分と説明が細かいな、この紙。
でも、こういうのを人数分出すのってめちゃくちゃ大変じゃないか?生徒全員がこの周辺に住んでるってわけでもないし、説明も私の家からの道筋だし…ほんとのところ、私に猫耳が生えてすぐ手紙が届いた時点でもかなりおかしいと思っていたけど。『ベアリエント』というのは、ずいぶんと特異な体質(そんな言葉でくくれるのかしらないけど)の集まりであるらしい。

「タバコ屋はっけーん!」

まだ開いてないけど、上についてるマイル○セ○ンの看板からしてこれは間違いなくタバコ屋だ。
うちの近所にこんなタバコ屋があったとは全然知らなかった。お母さんはタバコなんて吸わないし、学校は逆方向だし…知らなくて当然といえば当然かもしれないけど、なんだか不思議な感じ。自分のテリトリーだと思っていた世界が、いきなり知らない場所になったみたいだ。

「二本目の細い道を道なりに進み、突き当りを左折し十歩。右手の路地に入る」

タバコ屋から少し歩くと、まさしく「細い道」がコンクリートの塀に囲まれて存在していた。
大人ひとりがやっと通れる程度の道。猫とか…野良犬の通り道に使われていそうだ。こんな道、指定されていなかったら絶対見逃してる…だって、隣の家の木に隠れて微妙に見難いし。
いくら細い道といったところで、女子中学生の私一人が通るのには大して困るわけじゃなかった。ただ、持ってるバッグが太いからちょっと横にして気にしながら歩く。…………なかなか長いな、この道。
二分くらいだろうか。高い塀に囲まれた所為でどちらかというと暗い雰囲気の路地を抜けると、そこは見たこともないような住宅街だった。私が住んでるところから、直線距離はそんな離れてるわけでもないのに高級感溢れる家が並んでいて、道もしっかり舗装されていて凸凹していない。家の一軒一軒も随分でかい。

「へーこんなとこ、この辺にあったんだ。
 おっと、いけないいけない。えーっと…突き当りを左に十歩。
 ………………きゅう、とうっ!!ここを右ね」

右を向くと、見事なまでにぴったり真横に、さっきよりも少し太めの道路があった。本当にぴったり。まるで、最初から私の歩幅を知っていたみたいに、正確だ。そんなこと、ありえるわけがないのに。
僅かな疑問を頭の片隅に置いたまま、薄暗い路地に足を踏み入れる。
ここまで、あまり深く考えなかったけれど。なんだか、今日はいつもの朝と違う気がする。さっき感じた不思議な感じとは違う、変な気持ち。違和感っていうのかな、こういうの。
まだ朝早い六時だといっても、この時間ならジョギングしてる人とかちょっと遠い会社へ向かう人とか、それなりに人通りがあるはずだ。五軒隣の後輩は、六時くらいから犬の散歩をしてるって聞いたことあるし。
それなのに、私はまだ一人も、人とすれ違ってない。それどころか、猫も犬も見てないし、鳥の声すら聞いてない。
変だ、こんなの。あきらかに変だ。

まるで―――――――私に合わせて時間が廻ってるみたい。


「路地を暫らく直進すると、駅が見えてきますのでその駅にとまっている電車に乗ってください………?」

そこまで読み終えた私は、もう一度その案内用紙を初めから読み直す。……道は、間違ってないはずだ、うん。
そう納得してから、私は恐る恐る顔を上げて、自分の正面を再度見た。
眼に映るのは、白いコンクリートで出来た、私の身長よりも大分高い他人の家の塀。
間違いなく、行き止まりだ。

「待ってよ待ってよ…道は、間違ってないはずだし、ちゃんと十歩で計ったよ?なのに行き止まりって何さ…この手紙、間違ってるんじゃないのっ」

何度読み返しても、手紙の内容が変わるわけもなく、そこには「まっすぐ進んで電車に乗れ」としか書かれてない。電車って何処だよ。この壁が電車とでもいうのだろうか。

「………はめられた…ってことはないよね。今更手の込んだ悪戯、とか」
「どうかされましたか、姫君」
「いや…なんというか。なんだか人生の転換を決意してここまでやってきたのに端から挫折を味わったようなそんな感じで」
「それはそれは…心中お察しいたします」
「あ、ありがとう…って、誰っ!?」

二度も返事をしておきながら、漸く声をかけられていたことに気付き振り返る。
でも、これまた何かがおかしいらしい。私の周りには今でも人っ子一人見当たらない。いったい誰が声をかけてきているっていうんだ。

「空耳…?」
「空耳ではありません。私は姫君の足元におりますよ」
「あ…足元……?」

ゆっくり、視線を下に向けたのは、何だかんだいっても怖かったせいだ。猫の耳が生えてから、今までの常識が一転させられることばかり起きていて、驚かずにいられるわけがない。まして、今の私は外見がどんなに変わったところで精神的にはまだ人間。知らないことは怖いし、正直信じたくないって思わない気持ちがないわけじゃなかった。
だけど、結局私の目に飛び込んできたのは、これまた常識では考えられないような結末だったわけで。
なんと、私に話し掛けてきたと思われる彼(たぶん彼女ではない)は―――――猫だった。
私ってば…ずいぶん猫に好かれているらしい。

「えっと…あなたが話し掛けてくれてたの?」
「はい。失礼ながら姫君が困惑されておりますようにお見受け致しましたので、声をかけさせていただきました」

しゃがみこんで、出来るだけ彼と視線をあわせようと努力してみる(不可能だけど)
彼は、こないだ私に手紙をくれた黒猫くんとは正反対の真っ白な猫だった。
すらっとした体つきに、汚れのない綺麗な肌の色。金の雑じる翠の瞳は、朝の柔らかい光を反射してキラキラ輝いている。きっと、血統書とかついてる由緒正しい猫なのだろう。勿論、由緒が良ければ人語が喋れる、ってわけではないと思うけど。
それにしても、私にもそれなりに適応能力がついているみたいだ。猫が喋っていてもちゃんと返事できるなんて。
…………まあ、猫耳がある時点で「普通」ではないもんな。

「どうかなされたのですか、姫君。お急ぎにならないと列車が出てしまいますよ」
「いや…それは解ってるんだけど。っていうか、その姫君ってなに?私の名前は、なんだけど」
「それは存じております、姫君」
「いやだから、姫君って…私は一介の庶民なんだって」
「いえ。姫君は姫君にございます」

…………なんなんだ、この猫は。
軽く頭を抱えて溜息ひとつ。
別に現状が変わるわけでもないけど、そうでもしないとこの非常識な現実を直面できないと思い、無意識に零れた。

「溜息などつかれて…何かお困りのことでも?私に仰ってくだされば、姫君の願い、幾らでも叶えましょう」
「願いって言うかね…私、駅に行きたいんだけど、それがみつからなくて」
「駅?駅とは列車の到着するあの駅でしょうか?」
「それ以外に駅があるなら見てみたいものだわ」
「駅でしたら、姫君の目の前にございますが」
「目の前って…どうみても壁でしょ」

わけのわかんないことを言ってくる猫を一蹴。
何度見たって壁は壁。どうみてもこれは駅には見えないし。これが駅だって言うなら、列車はその上を走り回ってる猫か。いや、私も猫みたいなもんだけどさ。でもさすがにまだ、完全に人間を棄てたくないって言うか…

「ああ、失念しておりました。姫君は、人間の世界で成長なされたのでしたね。これは失礼致しました。姫君にはあれがただの壁にお見えになるかも知れませんが、あの壁は特別な路なのですよ」
「特別な…路ぃ?」
「はい。あの壁は、下等な人間にはただの壁であり、姫君のようなマナを使役することの出来る方々にとっては通り抜けられる通路なのです。
 どうぞ、お手を触れてお試しになってください」

猫は、私に道を譲るように横に移動する。
彼の言葉の中にはよくわからない表現が沢山あったけれど、とりあえず目の前のあれは私には通ることが出来る壁だってことなんだろうか。
でも、どうみても壁は壁。彼は平気だというけれど、それでダメだったらどうしようという不安が生まれてしまって、手を伸ばすことがどうにも恐かった。

「どうされました、姫君。怯えることはありません。姫君に、通り抜けられないわけがないのですから」

猫はかなり自信満々。
逆に私は非常に薄弱。

ごくんと息を呑んで、震える手をゆっくりと白い遮蔽物へと伸ばす。

これを越えてしまったら、私は完全に人間じゃなくなる。
これに触れることが出来たなら、私はもう一度人間に還れる。

そんな淡い願いを抱きながら、指先はどんどんそれに近づいた。
正直なところ、私がどちらを望んでたのかは私自身にも解らなかった。人間に戻って、中学校の友達とまだまだ遊びたいと思う感覚もあったけれど、ここまで来た以上新たな道を歩くのもいいかな、なんて思う感情も何処かにあって。それが単なる好奇心なのか、それとも他の何かなのかまではわからないけれど。
私のそんな思考なんて知りもしないで、審判を下す壁はものも言わずそこにただ立ってる。
あと数ミリ。
一度、指は進むことをやめた。恐いのだ、とにかく。


「……うん」


何が「うん」なのかは関係ない。
ただ大きく頷いて、感情にけじめをつけて、私は残りの距離を一気に進んだ。

指先に、何かぶつかるような感覚。が、一切ないことに気付いたのは、数秒後。私の手の平の半分以上は、見知らぬどこかに飲み込まれてた。

「これで…私もベアリエント、か」
「姫君は、生まれたときから変わりませんよ」

首だけ回して後を向くと、猫がこっちを見上げて首を傾げてそう言った。

「あー、猫さん。ありがとね、教えてくれて」
「姫君にお礼を言われるようなことではありません。
 …ところで、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?」

壁から一度手を抜いて、肩のバッグを背負いなおしてると猫が神妙な趣で尋ねてきた。
今までの雰囲気とも微妙に彼の纏う空気が変わってたから、私はちょっと躊躇いつつも「なに?」と返事を返す。

「姫君の首にかけられているそれは…」
「あぁ、これ?」

地図をポケットにしまって、開いた右手で首にかかったシルバーのチェーンを持ち上げる。
何処にでも売ってそうなそのチェーンの先には、同じくシルバーの指輪がついている。私には大きすぎる男物の指輪で、表面によくわからない模様が彫りこまれてる。内側には、ローマ字でイニシャルが彫ってあった。

「これは、私のお父さんの形見なの。本当はお母さんが持ってたほうがいいんだろうけど、お母さんはほかに沢山思い出があるから、って小さい頃に貰ったんだ。お母さんがお父さんと結婚する前から、ずっとしていた指輪なんだって」
「姫君の、お父上の形見…で、ございますか」
「うん。それが、どうかした?」
「いえ。別に大したことではありません。お引止めしてしまい、申し訳ございませんでした」
「えっ、別にそんな…私のほうこそ、助けてもらったし。ほんとにありがとう」

もう一度お礼をいうと、猫は恭しく私に頭を下げてくる。
彼はどうやら私が壁を越えるまで見送るつもりらしく、そこから一歩も動こうとしなかった。見送られるなんて恥ずかしいからどこかへ行ってもらいたかったというのが本音だったのだけど、彼がどこか行くまで待ってられるほど時間もないし、追い払うなんて無礼はさすがにできない。仕方なく、私は手を振りばいばい、と言って壁に飛び込んだ。
猫は、そんな私をずっと見つめていたようだった。





















「姫君。貴女様にお父上のご加護がありますよう」

彼は、トンと音をたててその場をあとにした。


地図、ときどき案内猫
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