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序 2
すべて真の生とは出合いである。 (マルティン・ブーバー) 「…はぁ…はぁ」 じりじりと照りつける太陽が一年の中で最も憎らしく思える季節、夏。 青々と茂った木々の間を、歳のころ十ばかりの少年が汗を滴らせながら歩いていた。 頬や服の端々は草や土で汚れており、乱れた呼吸からも少年がいかに長い間歩き続けているのかが窺い知れる。実際、彼はすでに二刻以上の時間、この真夏の太陽の下を歩き続けていた。初めは渇きを訴えていた喉もいつの間にか感覚を失っているし、前後させている足は鉛のように重い。いい加減、体力も限界のようだ。 (俺は…こんなところで死ぬのか) それだけは嫌だ。少年は切に思った。 いくら広すぎるとはいえ、もう暮らし始めて数年経つ邸の庭院で死ぬなんて ―――― 少年、絳攸は自身の破滅的な方向音痴を呪いに呪って呪いたおした。 しかし、いくら方向音痴を嘆いたところでどれだけ進んでも自分の室に辿り着けないのは事実。しかも、先ほどから誰ともすれ違っていないところをみると、庭院の中でも滅多に使われない離れの方に来てしまっているのかもしれない。珍しく、庭院に咲いていた花に興味を持ったのが運の尽きだったのだろうか。 背の高い草の間をなんとか抜けると、目の前にこじんまりとした門が見えた。絳攸は必死に教えてもらった庭院の地図を頭の中に思い浮かべる。この広大な邸には、正面の門の他にふたつの通用門と今ではほとんど使われていない裏門が四つある。絳攸の背より幾分高い門の木戸は、触れるとギイと鈍い音をあげた。長く使われていない証拠だ。 (よかった…これで、なんとか) 自分の知識にある場所に出たことで安心したのか、絳攸は膝の力が抜けるままに腰を下ろした。座り込んだ草が陽の光を浴びて暖かな熱を帯びている。直接触れる手は少し熱いが、耐え切れないほどではない。むしろ、時折吹く風と合間って心地よいほどだった。 数年前、紅黎深を名乗る男に拾われて以来、絳攸の人生は間違いなく変わった。 夏の暑さも冬の寒さも、疎むことしか知らなかった自分が今は心地よさすら覚えている。恵まれることで心に余裕が生まれると先人は言うが、それは確かだと思う。誰かに名を呼ばれ、誰かに愛され過ごすことが灰色だった世界に色を与え、ただ流れていただけの時間に思い出と未来をくれた。今尚、昔の自分と同じように過ごす子どもが数多くいることを知っていながら、手にした倖福を手放せない自分を傲慢だとも醜悪だとも思わないわけではない。けれど、そんな感情も忘れてしまうほどに、絳攸の今は倖色で彩られていた。 「李、絳攸…か」 拾われた後で与えられた名を、こうして口にするのも何度目だろう。 耳にする度に自然と綻ぶ口を制し、もう慣れた振りを演じているものの、実を言うと未だに名を呼ばれることが照れくさくて嬉しくなってしまうのを知っているのは、ふたりの養い親くらいだろう。それを知っている義母などは、何かというと絳攸の名を優しい声音で紡いでくれるし、自分を拾った男も仕方ないと言わんばかりに顔を顰めつつも、用を命じるためと絳攸を呼ぶ。その度に、どれだけ絳攸が恩を募らせているか、きっと誰も知らない。 歩き疲れた体を草の上に投げ出して、絳攸は空を仰いだ。 雲ひとつない快晴。藍色の顔料を薄めても作れない青が、どこまでもどこまでも続いていた。 こんな風に空をのんびり見上げられるのも、今の倖福があってこそ。空のてっ辺で瞬いた黒い星を見つめながら、絳攸は小さく笑った。 「…………ん? ちょっと待て、なんだあれは!?」 真っ昼間っからあんなにはっきり見える星があるだろうか。それも、黒。空に針で穴でも開けたような黒い点だ。しかもなにやら徐々に星が大きくなっているようにも見える。どう考えてもおかしすぎる。 慌てた絳攸が上体を起こし再度眼を凝らし空を見上げると、先ほど確かに見えたはずの黒い星が消えていた。気のせいだったのだろうか。なんとなく気味が悪くなり、とにかく一度自室に戻ろうと絳攸は立ち上がるために膝を立てた。 「 ―――――――― え?」 素っ頓狂な絳攸の声はそれなりに大きかったが、同時に鳴り響いた爆音にかき消され絳攸は自分が実際に声を出したのかさえ判別することができなかった。加えて、頭から肩、胸、腰にかけて思い切り衝撃が走る。以前、書庫の棚を引っくり返して本に埋まったときに似ているな、と絳攸は思った。唯一違うことといえば、今自分に乗っかっているものが、本よりももっと重く柔らかいことくらいだろう。 「いつつ…ったく、誰だよーんなとこに落とし穴掘ったのはー! って、ちょっと待て!卵!卵だいじょぶか!?タイムセールの苦労の結晶は無事かーーーー!!!」 それが、李絳攸が聞いたの、最初の言葉だった。
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