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序 3
僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。 (夏目漱石) いつのまにか自分の上に乗っていた少女を見たとき、想像以上に彼女が幼かったことに絳攸はまず驚いた。 下敷きにされている自分にはかなりの重さがかかっているのだから、もっと大きな男か、少なくとも成長期を終えた大人を想像していたのだが、聴こえた声の高さも目に映る華奢な姿も、それが自分より幾らか幼い少女であることを告げている。 「卵ー卵ー」と繰り返していた少女は、はたと何かに気づいたように周囲を見渡した。その視線が絳攸と交わると、「げっ」と少女らしからぬ声をあげ勢いよく立ち上がった。 「わ、悪い!だいじょぶか、お前!?」 両手になにやら大きな荷物を持った少女を見て、これが重さの原因かと絳攸はひとり納得する。と同時に、どこからともなく現れた良くわからない(とりあえず服装からして自分たちと異なることは絳攸にも一目でわかった)少女が絳攸の身を案じたことに驚いた。 絳攸が先ほど寝転んでいたのは、門からも木々からもいくらか離れた場所。頭の上には一面に広がる空しかなかった。つまり、彼女はあれだけの荷物を持って思い切り長い距離を飛んできたか、まったく何もないところから降ってきたということになる。はっきり言って、どちらもありえない。彼女が卵の心配をしている間にそんなことを考えていた絳攸は、少女が俗に妖と呼ばれる生き物なのではないかと推測していた。だからこそ、少女が自分とさして変わらない思考を持っていることに、驚かずにはいられなかったのである。 「お、お前、一体…!」 「はぁ?何あんた、その格好。夏だってのにあっつくねーの?って、ちょっとオイ。ココどこよ?私、とっとと家帰って夕飯の支度しなきゃなんねーのに!うおっ、もう五時じゃん!兄貴達帰ってきちゃうよ!!」 「何をしている、絳攸」 理解し難い単語を繰り返し大慌てな少女の向こう側から聞こえた、正反対の冷たい声に絳攸は慌てて立ち上がる。なぜ、こんな場所にあの人が。疑問は山のようにぽこぽこと浮かんだが、そういえば先ほどものすごい音が鳴ったのだった。おそらく、邸全体に響き渡ったほどだろう。気が向いたあの人が様子を見に来ようと思っても、なんらおかしなことはない。 「れ、黎深様…」 「邸の庭院で迷子になるとは…しかも途中で拾い物か?何処で見付けてきた、そんなもの」 扇の向こう側で彼が大きく息を吐いた音が聞こえた。 案の定、現れたのはこの邸の主にして絳攸を拾った張本人である紅黎深。加えて、彼の後ろに細君である百合まで控えている。絳攸は驚きのあまり声が出なかった。ふたり揃って現れるなど、なんの前触れだ。 が、実のところふたりは音を聞きつけて現れたわけではなく、庭院の同じ場所をぐるぐると回り続けていた絳攸を茂みの反対側にある邸からずっと眺めており、突然現れた少女とそれに戸惑う養い子に気付き近寄ってきたに過ぎない(ひとりは単に気が向いただけだ、と突っぱねるだろうが)更に言えば、現在絳攸がいる場所から母屋までは歩いて五十歩未満。少し顔をあげれば屋根も見える距離である。 「あのーそんなもん扱いされといてなんなんだけさ、ちょっと聞いていいか?」 「なんだ小娘。貴様、どこから入ってきた」 言葉を詰まらせた絳攸に向いていた視線が、ついと少女に移動する。一睨みで熊でも殺せそうな冷たいそれに気後れすることなく、少女はいやーと頭を掻いて言った。 「てか、その辺も聞きたいんだよねー 私、っつーんだけどさ、ついさっきまで自宅に向かう坂道上ってたんだよ。自宅ってのは日本の神奈川県三浦市にあんだけど、どー考えてもこことは違うんだよねーまず、服装からして土地違うし? んでさ、結局ここってどこなわけ?んでもってあんたらその格好で暑くない?」 と名乗った少女は、袖のない服一枚に膝の見える下裾着という確かに涼しげな格好をしている。しかし、どこをどうみても少女のするような格好ではない。むしろ、少年でもここまでの露出は控えるのが絳攸らが暮らす国での常識だ。 (だいたい…ミウラとはいったいどこのことだ…!) 上から下までまじまじと少女を観察し、先の言葉の端々を思い返してみても浮かんでくるのは疑問の二文字のみ。少女の問いかけに答えることもせず、ただひたすらに思い悩んでいた絳攸を余所に、この場で唯一少女と同性である人物が一歩彼女に近づいた。 「そうね、さすがに夏は少し暑く感じるわね。でも、貴女のような格好をする人はこの国にはあまり居ないわ。みんな我慢してしまうの」 「へーすっげぇ忍耐力が必要な国なんだな。私だったら三日でへこたれそう」 「ふふふ、本当に。それから、ここがどこなのかということだけれど」 「少なくとも日本じゃないよな」 「ここは彩雲国の王都貴陽という場所よ。聞き憶えはありそうかしら」 膝を折り少女と目線をあわせ百合は話した。向こう側では、興味無さそうに彼女の夫が扇をぱたぱたと仰いでいる。しかし、ちらちらと視線がふたりに注がれているのを見る限り、どうやら興味だけはあるようだ。 しばし、腕を組んで悩んでいたは、思案の末かぶりを振る。その表情は、どこか淋しげに絳攸には見えた。 「だめだ。全ッ然わかんない。彩雲国って漢字で書くんだろ?ってことは中国とか日本と近い文化なんだろうけど、アジアにそんな国あったかなんて覚えてないや」 「そう…」 「ちなみにおねーさんは、日本とか三浦とかに聞き憶えは?」 少女の問いに今度は百合が首を振る。「そっか」と取り繕った表情で、は笑った。 「ま、わかんないもんは仕方ないよな。ところでもう一個聞きたいんだけど、この近くに学校か孤児院か、最悪宗教関係の布教場とかってない?」 「こじ、いん?」 首を傾げ鸚鵡返しに絳攸は尋ねる。くるりと絳攸の方に顔を向けたは、あっけらかんと笑って「そ、孤児院」ともう一度同じ言葉を繰り返す。 学校、というのは学ぶというくらいなのだから教育を行う場のことだろうか。宗教関係で思い浮かぶのは彩八仙に関わるものだが、具体的な信教団体が貴陽で活動しているという話はあまり聞かない。第一、国一番の宗教機関と言えば仙洞省のことだろう。一般の人間が、そうそう入れるような場所ではない。 思い悩む絳攸を真っ直ぐに見つめ、先ほどよりもゆっくりとは言った。 「身寄りとかのない子どもって、大体国がホジョキンとかで面倒みるんだろ?それが無ければ宗教団体とかに行って、ジゼンカツドウってむしずがはしるエンジョうけたりとか。ひとりきりになったらとにかくそーいうところを頼れ、って兄貴が言ってたけど。 あーもしかして、そういうのなかったり?ってーと、身寄りのないガキは即行浮浪者決定かぁ。さすがにそれは経験ないなー」 「お前の住んでいたところでは…その、エンジョとかが当たり前だったのか?」 「私の暮らしてた国はね。他はしらんよ。行ったことねーし」 相も変わらず軽い調子で彼女は言うが、絳攸にはその考えがどうしても理解できなかった。 彼女は、自分がこのあと選べる道がいくつもないことを、当然のように理解している。その道が平坦でもなく、綺麗ごとに溢れたようなところでないことも、確実に知っているのだろう。それは、昔絳攸が歩んできた道であり、今は遠のいた、それでいてすぐ傍らにいつでも存在している道だった。できることなら戻りたくはない、されど気まぐれに突き落とされることが無いと信じきることの出来ない確かな過去。 ぞくりと、背中を冷たい何かが走りぬけるのを絳攸は確かに感じた。暑さの所為ではない汗が、じんわりと額から溢れでる。 今になって、ようやく絳攸は気付いたのだ。彼女は、もうひとりの自分だと。 絳攸の目の前では、手に持った荷物を持ち直している。重さの均等が取れたのか、いくつか中身を移動させたあとで、これでお終い、と言わんばかりに勢い良く彼女は背を伸ばした。 「ま、とりあえずはなるようになるか。色々教えてくれてさんきゅーな。さっき私がぶつかったとこ、ちゃんと冷やしとけよー」 「!! ま、待て!」 たった二文字の単語が喉から飛び出したことに、なにより驚いたのは絳攸自身だった。 それと同時に、にかっと効果音でも鳴りそうなほどきっぱりと笑った彼女の手首を、絳攸の右手がしっかりと掴んでいた。ぎゅっと握った腕は細く、絳攸の手のひらで簡単に一周できるほどに小さく華奢だった。たとえば庭院に生えている樹から飛びおりただけで、簡単に折れてしまいそうなほど。大人とも男とも、そして自分ともまったく違う少女の体の作りに、絳攸は息を呑む。この細腕をして、彼女は何を決めたのだろうか。 「…なに?」 首を傾げきょとんと目を丸くした彼女は、絳攸の右手と掴まれた手首をじっと見る。 本当に、何をもってこんな行動を取られているのか解からないという少女の瞳に気付き、奥歯を噛み締め絳攸は決めた。 自分が、彼女の"あの人"になろう。
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