翡翠の瞳の獣 2



(だから、声が大きいって言ったんだ)

書架の影からこちらを伺うようにゆっくりと現れた三人の姿を目視して、流珠は心の内で大きく舌を鳴らした。彼らが居たはずの席と、先ほど通された室との間には同じ邸内とはいえそれなりの距離があった。おそらく、流珠が室を出ても気付かれない程度の空間は、空いていたはずだった。それなのに、と流珠は思いきり頭を掻き毟りたい衝動を抑え、思った。

("元"王族ともあろう人間が、ぼく如きで取り乱しすぎだ)

そもそも「」の記憶が正しければ、彼は何人かの兄弟の中で最も優秀だと謳われていた人物だったはずだ。それほどの人間が、どうして自分を呼び止める、ただそれだけのためにあんな声を張り上げるのか。それほどまでに彼にとって「紅流珠」は大きいのだろうか。過ぎった思考は瞬きするよりも早く、頭の中から掻き消えた。ありえない。彼が愛して止まないのは、ぼくでも姉さんでもない。そんなことは、最初の二年ですぐにわかった。
付け加えるならば、彼の中での優先順位はおそらく自分よりも姉の方が上のはずだ。流珠は男、秀麗は女。事実がどうであれ認識がそうである以上、誰の目からみても明らかな結論だ。勿論、それに対しての不満は流珠には欠片もなかった。端から文句があれば、ひとり旅に出たりなどするわけもない。

狙ったのか、それとも無意識だったのかまでは判別できない静蘭の行動に一通りの悪態を並べ連ねたあとで、流珠は現れた三人に漸く意識を向けた。
知っている、否知らない訳がない。なにせ「」が絵で見た姿と、なにひとつ変わらないのだから。唯一変わった部分があるとすれば、平面か立体かということくらいだろう。それだけで十分印象は変わるが、それでも判別できるくらいに彼らは特徴的だった。
三人の男のうち、中央に立っていた一番歳若い青年が唐突にむずむずと表情を揺るがせた。彼らの視線は静蘭ではなく、間違いなく自分に注がれている。未知の存在、異分子に向けられた眼差しは決して軽いものではなかった。目線が動いているわけでもないのに、全身を物色されているような居心地の悪さを流珠は感じた。

値踏みされている。

気付いたときには、口元が緩んでいることを自覚していた。こちらの世界で「紅流珠」として過ごすようになって、身につけた術のひとつだ。「」は決して知らなかった対処法。気に喰わない、腹の立つ相手を前にしたら ―――――――― 哂え。


「先ほどはお気遣い頂きありがとうございました。お蔭で、姉とゆっくり話をすることができました」
「いや、大したことじゃない」
「そう仰っていただけると助かります。
 改めまして、ぼくは紅流珠と言います。父と姉が、お世話になっています」

おそらく年相応に見えなくもないであろう人懐っこい微笑を浮かべて、流珠は絳攸に告げる。先ほどはただ通り過ぎただけで、ほとんど言葉を交わすことがなかった。元々が、そんな機会一生ないはずの相手だ。名前を名乗る必要などなかったのかもしれないが、それでも彼だけは一応の繋がりがないわけではない。まあ、実際には目の前の三人全員に、ある程度の接点がないわけではないのだが。一歩、絳攸のみに足を向けたまま、流珠は考えた。
大した間も空けず、こほんと一度咳払いをして絳攸は流珠を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳は揺らぎなく、とても素直に流珠には見えた。

「吏部侍郎の李絳攸だ。邵可様の息子だそうだな」
「はい。と、言ってもすでにご存知だとは思いますが、七年ほど邸を出ていましたので」
「へえ、それは興味深いな。七年もいったいどうしていたんだい?」

流珠の言葉が終わった瞬間、差し込むように入り込んだのは別の男の声だった。艶のある低い声音には、少なからず聞き憶えがある。勿論、彼本人の声を聞くのはこれが初めてだ。ただ、どこか似た根を持った少年の声を長く聞きすぎていた、それだけのこと。
彼と良く似た面影を持った青年は、彼とは似ても似つかない微笑みを貼り付けて言った。

「ああ、名乗りもせずに失礼だったかな。私は藍楸瑛。左羽林軍で将軍の職に就いている」
「左将軍でいらっしゃったのですか。ご挨拶もせずに失礼しました」
「構わないよ。…それより、七年も旅でもしていたのかな。君はとても若く見えるけど」
「ええ、まあ。今年で十五になりました。
 旅といっても、子どもの道楽のようなものですよ。ただ見聞を広めてみたくて、考え無しに歩きまわっていただけです」

うわ、本当ににこにこしてるくせに全然笑ってない人なんだ。「」が知っていた藍楸瑛に対する評価を思い出し、流珠は段々嫌気がさしてきた。確か、小説で読んだあの評価は「紅流珠」の姉である秀麗が抱いたものだったはずだ。文章すべてを覚えているわけではないが、跪かないだとか、にこにこ丁寧に値踏みをしてくるといったキーワードだけはなぜか印象強く憶えていた。自分も人のことが言えるわけではないが、確かに、と思わず納得してしまう。龍蓮のすぐ上の兄は、見極めているのだ。

「それよりも、失礼ですが。先ほど…吏部侍郎と仰られましたよね」
「あ、ああ。そうだが」
「でしたら、ご迷惑でなければ吏部尚書室までの行き方を教えていただけないでしょうか」
「吏部…尚書、室だと?」

瞬間、絳攸の表情がぴしりと固まったのを流珠は見逃さなかった。
それから間もなく、きらきらと効果音でもつきそうなほどに輝いた瞳が、絳攸から流珠に注がれはじめた。なんだこれ。なにを期待されているんだろう。疑問に思ったのは数拍で、順序だてて考えてみれば彼が流珠になにを求めているのかはあっさりと解かった。

(叔父上…そこまで、彼を追い詰めているんですか)

密かに内心泣きたくなったのは内緒だ。おそらく、本気で泣きたいのは自分以上に目の前の青年であるはずなのだから。
緩んだ表情を無理やりに引き締めるように唇を引き結んだ絳攸は、強張った表情のまま「構わないが」とぶっきらぼうに応じる。すぐ側で、藍楸瑛と静蘭が少し驚いているのが解かった。当然だ。他のことに考えが向いてしまっている絳攸はまだ気付いてはいないが、どう考えてみてもおかしいはずだ。なんの官位も持たない、官吏でもない「紅流珠」が、吏部尚書室を訪れようとするなんて。

「ありがとうございます、吏部侍郎。先ほど、霄太師に言付かったのは良いのですが、朝廷があまりに広く迷ってしまって」
「そ、そうか。…まあ、確かにここは広いからな」
「(声、上ずってますよ)ええ、本当に。それで、吏部尚書し」
「まっ、待つのだ!」

ああ、加わってきちゃったよ。なんだってこの子どもはこんなに ――――――――
零れかけた溜め息を飲み込んで、流珠はそしらぬ顔でちらと一瞬彼を見た。纏う服の色はやはり紫。それを、理解していないわけではないだろうに、その認識はあまりにも低い。
なにを待てばいいのかも告げられぬまま続いた沈黙に、仕方がなく流珠は後ろで控えていた静蘭を呼んだ。大分高い位置にある彼の耳に出来る限り顔をよせ、小さな声で耳打ちすると静蘭はやっと気付いたように「ああ」と声を洩らす。
慣れすぎてしまっている。彼らが気付かなかった原因に名前をつけるのならば、きっとそれが正しいのだろう。
一歩、流珠の横に並ぶように静蘭が足を進めた。

「主上。大変失礼とは存じますが、流珠様は主上とお言葉を交わすことができません」
「なぜなのだ!絳攸や楸瑛は良くて、どうして余だけ」
「…流珠様は、官吏ではありません。ましてや、登朝を許された身でもありません。霄太師の拝命により本日は登朝しておりますが、ただの町民である流珠様が主上と直接お逢いするなど、許されることではありません」
「ッ!!」

誰かが、息を呑んだ音が聞こえた。さも、当然のように話をしていた絳攸は眼を見開き、楸瑛は口笛でも吹きだしそうに楽しげに顔を綻ばせた。
彼はもっと自分の立場を認識すべきなんだ。流珠は、考える。たとえばここで何も考えずに自分が主上と会話をして、それを主上が許してしまったとしたら、それをどこかで誰かが見ていたら一体どう思うだろう。主上は名も知れぬ若者と府庫で歓談していた。政に参加もせずに一体何をと、いわれる可能性がないと言い切れるだろうか。今こうして対峙しているだけでも問題なのに、言葉を交わすなど以ての外だった。
彼はもっと、自分の置かれている現状を知らなければならない。彼の座っている地位が至高のものであることを意識しなければならない。誰とでも、自由に接することが許された場所ではないのだと、納得しなければならないのだ。

「李侍郎とはすでに一度お逢いしておりましたので、自分から声をかけさせて頂いたのだと」
「なるほど…だから私にも声をかけてこなかったんだね」
「申し訳ありません、左将軍。自分のような民草は、本来ならば声をかけて頂くのを待つ身とはいえ失礼な態度をとりました」
「いいや、殊勝な心がけだと思うよ。
 …主上のことも、衣の色を見てわかっていたんだね」
「禁色を身に纏うお方を見間違うことがあるでしょうか」

紫の名を与えられた青年と決して視線を合わすことなく、流珠は眉尻を下げ告げる。


「不躾とは存じますが、ご承知下さい。
  ―――――― 御前を、失礼いたします」


通常よりも高い位置で拳と手のひらを合わせ、流珠は小さく頭を下げた。跪拝には程遠い簡素な礼は、敬いの感情を表すよりも先に彼が視界を故意に塞いでいることをまざまざと見せ付ける。
自身の手の下から見える視界の中で、青年の手が固く握られ震えているのがわかった。子どもだ、本当に。こんなことで、たったひとりに拒まれただけで揺らいでいったい誰を統べることができるというのだろう。

「だが、余は…私は…」

呟かれた弱音に、楸瑛がため息を零した。それから、出来る限り自然な仕草を装って主上を府庫の奥へと促していく。方向的には、おそらく秀麗と邵可の元へ向かったのだろう。横に立った静蘭に目配せをし、流珠は軽く頷いた。心得たと頷き返した静蘭は、絳攸に一礼すると彼らの後を静かに追った。

少し、厳しくしすぎたかな。
過ぎったなけなしの罪悪感は、三歩歩いたときには露と消えた。



  
 ※王様と町民がであったら、多分会話なんてしちゃいけないんだろうなーと思ってます。
  確か、どこかの国の作法では上位の人が話しかけないと話しちゃいけないとかあったし…
  必要がなければ話さない、が流珠くんなりの処世術なのです。