翡翠の瞳の獣 1



「やあやあ。ご無沙汰してます、雷炎兄さん」
「…………………なあ、オレは真っ昼間っから、夢でもみてんのか」


額を押さえ、頭を振り、目を閉じて。頬を抓るくらいでは足りない彼は、近くにあった花瓶で自分の頭を殴ってみた。ああ、やっぱり痛くねえ。ってことは夢か、これは。あからさまな現実逃避の道へと逃げ、目の前のそれを全力で見なかったことにしようと雷炎は踵を返しかけ ――――――― がしりと、嗤う彼に肩を掴まれた。

「放せ、てめえ!痛くねえなら夢だろ、オイ!!」
「あはは、嫌ですよー花瓶バラッバラにして痛くないなんて、雷炎兄さんなら当然じゃないですか。よっ、さすが石頭」
「棒読みで言ってんじゃねえ!大体てめえ、家はどうした?!何で貴陽に来てんだよ、はく!!」

「はく」と呼ばれた彼は、一見して二十代半ばと見える品の良い青年だった。背で一つに結ばれた長い黒髪をなびかせて歩く様は無駄がなく、ここにいるはずなのに確かな気配を感じさせない。裾の長い服を着ているために隠れてしまってはいるが、彼の長い手足や鍛えられた体躯には、しなやかな筋肉が備えられていた。
雷炎は目の前の青年が僅かに動くだけで、身体の全神経が震え慄くのを感じていた。白雷炎が又従弟の「はく」は、白一族の分家に名を連ねるものであり、同時に「槍仙」の銘を与えられた人物でもあったからだ。

「ご安心下さいな、雷炎兄さん。ちゃんと家長の許しは得てますから」
「家長、てめえだろ!」
「だから私が良いって許可しました。完璧でしょう?」
「あのなあ…くそっ、筑百(つくも)の苦労が目に見えるぜ」
「え、そうですか?筑百は私と違って真面目で優秀ですから、問題ないと思いますけどね」

さして問題なしと言ってのける「はく」の様子に、雷炎は思い切り指を立てて頭を掻き毟る。「はく」より四つ若い弟である白筑百は、昔から兄の「はく」を慕い「はく」の力となることを良しとする節があった。が、ある時期を境に兄を嗜めるだけの力量を持つようになってきたと彼ら兄弟と仲の良い人物に聞いていたのだが…

(全ッ然、変わってねえじゃねーかよ!!)

分家とはいえ、一応は家長であるはずの人間をこうもふらふらとさせておくなど。はっきりいって雷炎がどうこう言えるようなことではないのだが、それでも一応「兄」と懐かれている雷炎には言わねばならない時があった。

「んで。家長のお前がわざわざ単独で貴陽に来るなんざ、どういう理由だ」
「理由ですか?そうですねーあ、雷炎兄さんに愛を伝えに、とかどうですか?」
「とっとと帰れ」
「あっはっは、んなことあるわけないでしょー私にはちゃんと可愛い可愛い婚約者がいますから」
「てめえ、真面目に答えねえと、筑百にちくるぞ」

そんなもの、脅しにもなりはしないのに。見当違いな言葉を吐いて上手い具合に揶揄われてくれる親類に「はく」は生温い微笑みで応じた。「はく」が彼の邸を訪ねると、彼はすぐに現われた。朝廷で職務に就いていたことは確認していたのに、彼といい彼の邸の家人たちといい、対応が早すぎると「はく」は思う。どうせ脅す前から、白州の実家に連絡を済ませているくせに。その実力も人柄も認める数少ない親類のひとりではあるが、結局はそうか。心の内で、「はく」は大きく息を吐き出した。

「別に筑百の許可も貰ってますから、問題ないですよ。というより、筑百にも行けと言われて来てますから。あ、そうだ雷炎兄さん。貴陽にいる間、ここに泊まってもいいですよね、わーありがとうございます兄さん!太っ腹」
「……なにも言ってねえよ、オレは」

口では悪態を吐きつつも、端からそのつもりだったらしい雷炎は顎で家人を呼ぶと「はく」をその背へと促した。
家人のあとに続く直前、前触れもなく「はく」は振り返る。
先よりも一音階、低い声音で言った。

「兄さん、『』という名に聞き覚えはないですか?」
「なんだあ、そりゃ。…ってそれ、姓か?」
「ない、みたいですね。うーん、ここも外れか」

急に真面目な顔を見せた「はく」に一瞬気圧された雷炎はぐっと息を呑み込む。「はく」の纏う鋭い空気は僅かなときで霧散したが、それをはっきりと感じ取れてしまった雷炎には、それが「はく」の本音であったことが解かってしまった。彼が貴陽に来た理由。それが、『』なのだと、雷炎は確信した。

「…誰だ、そいつは」
「さあ、誰なんでしょうね。実は私も知らないんですよ。あ、そうだ!これ、お土産なんですよ、兄さん」
「ああん、土産…って、オイ!なんだ、この山菜の量は!!」
「健康にいいでしょう。これで雷炎兄さんも菜食主義者の仲間入りが出来ますね。いやーいくら私でも手ぶらでなんて心が痛みますからね」
「ちょっとまて、はく!山菜の下、毒草混じってんぞ?!」
「大丈夫です兄さんなら死にゃしません。あ、私はいりませんよ。胃弱なんで」

あははと軽い調子で手を振る「はく」はそれ以上振り返ることをせず、雷炎が用意させた離れの方へと音無く向かった。
そして残ったのは、どデカイ麻袋に詰まった山菜と毒草の山と、それを渡された彼の又従兄がひとり。


「…『』、ねえ。あいつが興味を持ってるたあ…面白そうじゃねえか」


子どものように独り笑い、この世界に今はいない「彼女」の名を、もう一度書き記すように口にした。



  
 ※オリキャラオンリーな閑話風味で。
  雷炎さんは好悪特にないんですが、燿世さんより書きやすいですね(当然か)