翡翠の瞳の獣 3



「失礼するよ」という言葉に次いで開いた戸から入ってきた人物を見て、秀麗はギョッとした。その驚き具合といったら、つい先ほどまで断続的に続いていた目頭の刺激も引っ込むほどだった。

「ちょっとあなた、なんて顔してるのよ!」

慌てて寝台から立ち上がり、室に入ってきたばかりの一人に駆け寄る。見上げるように覗き込んだ表情はくしゃりと歪んでいて、泣く事を我慢している子どものようだと秀麗は思った。一国の長ともあろう人物が、一体なんて顔をしているのだろう。室の中にいるのが自分と父、それに主上と共に現われた藍楸瑛と静蘭だったのが唯一の救いだ。他の家臣に見られでもしたら。想像した秀麗は、慌てて懐から自分の手拭を引っ張り出すと、叩きつけるように顔面に押し付けた。

「い、痛いのだ、秀麗!」
「これくらい我慢する!」

手拭越しに「むう」と抗議の声が聞こえた気がしたが、秀麗は聞こえなかった振りをして無視を決め込んだ。すぐ傍らで、彼女の見事な手腕に武官二名が内心感嘆していたのだが、そんな事など露知らず、秀麗は眉を吊り上げて続けた。

「そんな顔して歩いてたら、周りの人が何事かと思うじゃない」
「…だが、秀麗は泣いてもいいと言ったのだ」
「そりゃ、言ったけど…私は臣下じゃないから、私の前ではって意味よ」
「だから秀麗のところに来たのだ」

尚も手を伸ばして手拭を抑える秀麗の背に腕を回して、主上は彼女の肩に埋もれるように額を寄せた。思いがけぬ行動に、秀麗の身体が僅かに強張る。けれど、耳元で聞こえる彼のか細い呼吸と歯の擦りあう音に、仕方なく抵抗を諦めた。
それにしても。主上が落ち着くのを待ちながら、秀麗は考える。彼は元々、それほど表情が豊かな方ではなかったはずだ。もちろん、出逢って十数日の自分は全てを知らない。けれど、嬉しそうに笑う時も、淋しそうに肩を落とす時も、彼が表情筋全てを駆使して感情を表すことなど皆無だった。その主上が、こんなにも感情顕わに哀しみを表現しているなんて。右肩の体温を享受しながら、秀麗は眼だけを動かして彼と共に入室した二人の武官を見遣る。視線が合うと、片や仕様がないと宥めるように苦笑し、片や申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「………のだ」
「え?なに?」

不意に耳に届いた小さな声を尋ね返すと、漸く主上が秀麗の肩から顔をあげる。先ほどよりも大分落ち着いてはいたが、それでも矢張り歪んだ表情は残ったままだった。耳や尻尾が生えていたら、間違いなく地面にくっ付くほど垂れていることだろう。項垂れたまま青年は、落とすように呟いた。

「流珠に…逢ったのだ」
「え…?」
「秀麗が、前に話してくれた。そなたの弟に、逢った」

彼の口から出てきた名称に、秀麗は懐にしまったばかりの萌黄と胸に提げた腕環が熱を発したように感じた。 静蘭の表情を見て、予想が付かなかった訳ではない。三人が室に現われた時機を考えれば、彼らがすれ違っていても可笑しくはないのだ。すでに李絳攸と顔を交えている以上、出くわせば流珠は挨拶をするだろうし、ともすれば主上と邂逅することもあるだろう。
けれど、秀麗は思う。可能性など否定して欲しかった。その名を、口になどして欲しくなかった、と。


「…流珠が、あなたに何か言ったの?」


自分の声の、なんと掠れていることか。向き合った栗色の瞳が、一度大きく見開かれて細められるのを秀麗は見た。きっと、今の自分は笑い損ねて酷く滑稽な顔をしているのだろう。先ほど彼を叱ったばかりだというのに、説得力の欠片もないというものだ。
けれど、秀麗はどうしても信じたくなかった。貴妃であると、位が違うという理由で断ち切られてしまった再会だったのだ。秀麗以上の身位を持つ彼と弟が、出逢うなんて。仲睦まじく、歓談しているんだなんて。
秀麗の胸の内に溜まった感情が溢れ出でてしまったのか。哀しみの中に微かな戸惑いを交えて、主上はぽつぽつと言葉を紡いだ。

「違うのだ、秀麗。流珠は、余に何も言ってはくれなかった」
「…どういう、こと?」
「余が、王だから。官吏でもなんでもない自分が、話すことはできないと、静蘭を介して伝えられた。本来なら、逢うことも許されないのだから、と。眼すら、合わせてくれなかったのだ」

常識を問えば、それが正しいことだったのだと、わからないほど彼は愚かではない。けれど、理解できるからと言って納得できるわけではないのだ。
逢ってみたかった。話をしてみたいと思っていた。邵可の息子で、秀麗の弟、そして"あの"絳攸に温かな眼差しを向けられていた少年。彼らのように自分に笑いかけてくれるものだと、勝手に思い込んでいた。

(わかっているのだ。流珠は、正しい。だが…)

淋しい、と。悲しいと感じてしまう心を如何して停めることが出来ようか。裏切られた、言ってしまえば嘘になるが、あの瞬間、彼にとっては裏切られたも同じだった。邵可と過ごし、秀麗と出逢ったことで溶け出した心に再び北風を注がれたような傷み。決して自分と眼をあわせようとしなかった彼の伏せた頭を見て、身体中の熱が全て奪われていく気配を確かに感じた。
そうだ。紫劉輝は思う。私は、当然のものと思い込んでいたのだ、と。理由なく、躊躇いなく、無条件で彼が「紫劉輝」を受け入れてくれるのだと。

「余は、流珠に嫌われてしまったのだ」
「…そんなことないわ。あの子はなんの理由もなしに人を嫌いになったりする子じゃないもの」
「だが」
「流珠は、とても賢い子だから。今はまだ、駄目だと思っただけよ。…きっと、いつか面と向かって話せる機会もあるわ」
「秀麗…」

口にした言葉に嘘偽りはない。流珠は理由なく他人を嫌ったりする人間ではないし、愚かでもない。賢いからこそ、遠からず「正しい」方法で彼と邂逅を果たすだろう。
そんな未来を思い浮かべ、秀麗は必死に笑った。知らぬうちに握り締めた指は、手のひらを貫くほどのものではなかったけれど、確実に爪先を肉へと食い込ませていた。

「わかったら、いつまでも変な顔してないの!ほら、講義の前にお茶淹れてあげるから」
「…今日の講義はお休みなのだ」
「えっ?どうしてよ」
「講師役の絳攸がね、件の弟君の案内役で吏部に行ってしまっているんだよ」

まあ、戻るまでに何刻かかることやら。入室以後、沈黙を保ってきた青年がにこやかに笑みを浮かべて語る。一体何を待っていたのか、秀麗に推し量ることは出来なかったが、彼の艶やかな表情の裏に何かがあることは確かだろう。
けれど、それが何であるのかを考えることは秀麗には出来なかった。頭の中も胸の内も、別の思考で埋め尽くされていた所為だ。


「なんの位も持たないぼくが貴妃である姉さんと長い時間一緒にいるわけにはいかないから」
「ただいま、静蘭」
「流珠に…逢ったのだ」
「講師役の絳攸がね、件の弟君の案内役で吏部に行ってしまっているんだよ」


考えまいと、思い出すまいと唇を引き結んでも鮮やかに繰り返される想い。
秀麗は知っている。この腹の下辺りで渦巻く黒く滲んだ墨色の感情を ――――― 人は、嫉妬と呼ぶことを。