彼女がみつけた小さな明鏡 4
「流珠様!」
府庫の一室を出てひとつ角を曲がった処で、静蘭は声を張り上げ彼の名を呼んだ。
音もなく進められていた彼の足がぴたりと止まり、振り返るまでの短い間で距離を縮める。静蘭と向き合った流珠は、口の端を僅かに下げて若干低い声で告げた。
「そんな大声だしたら駄目だよ、静蘭。府庫では静かにしないと」
「…そんなことで私が誤魔化されるとお思いですか、流珠様」
「なんのことかな。
…………あーごめんなさい、ぼくが悪かったです」
無言で睨みつける静蘭の視線に耐え切れないと、流珠は両手を挙げ降参を示す。七年経っても変わらないその諦めの良さに、静蘭は気付かぬうちに短いため息を吐いていた。
本当に変わらない。彼を七年ぶりに目にして、感じたのはその一言に尽きた。成長はしていた。だが、それは当然のことだ。当時八つだった子どもが十五になれば背だって伸びるし声だって変わる。顔の部品に大きな変化は無かったが、それらがつくりあげる顔立ちや雰囲気はどこか昔よりも大人びてもいた。
けれど、変わったと感じる外見全てを消し去るくらいに、変わらないと感じる内面の維持があまりに大きいと、静蘭は感じていた。それは子どもが子どものまま、身体だけ大きくなった、というわけでない。彼の場合は、おそらく逆なのだろう。むしろ、彼が邸を出る前から気付いていたことだ。彼の生まれゆえか、生来の性格ゆえかまではわからない。賢い少年は、それを見透かせることを許しはしなかったから。
(本当に、賢い方だ。昔から…なにひとつ変わらない)
静蘭が彼と出逢ったときから、彼は子どもらしからぬ子どもだった。自らを自制する術を知り、他者の顔色を正確に窺い知ることの出来る少年だった。そして、たった一人を除いて、甘えることが苦手な人だった。それすら今も、変わることはないようだ。
「…謝られるくらいでしたら、最初からなさらないでください」
「最初、ねえ。でも、帰ってきた段階で姉さんを泣かせてしまうことは決まっていたんじゃないかな。だからといって帰ってこない方を選択したら、余計に姉さんを哀しませそうだし」
どうやら「最初」の認識に大きな違いがあるらしい。七年前を思い浮かべていた静蘭も当然それに気付いてはいたが、訂正したところで彼がまともに答えるとも思えなかったので、とりあえず話を進めることにした。彼相手に、負けるつもりは決してない。けれど、完全勝利を容易く掴ませるほど、彼は弱くも優しくも甘くもないのだ。
「では、なぜ室を出られたのですか」
「そんなの、静蘭にだってわかってたでしょ。あのままぼくが居座ったところで、姉さんはぼくに何も言えなかった。…時間が、必要なんだよ。一方的に出て行って帰ってきたぼくにはたっぷりあったけれど、姉さんには考える時間も心の準備期間も用意してあげられなかったからね」
「まったく…流珠様、本当にお変わりになりませんね」
「そう?背だって伸びたし…旅をして、ちょっとは世の中を解かってきたかなって思うんだけど」
「旅などされなくとも、流珠様は世界を良くご存知でしたよ」
静蘭の言葉に世辞や誇張は一切なかった。けれど流珠は身の程は知っていると苦笑して、困ったように頬を掻く。
(ああ、その仕草も…昔のままだ)
思い浮かぶのは七年以上前の鮮やかな記憶。
流珠に重なり、ぶれるように見える過去の光景に、静蘭は自身の胸の内が小さく軋んだ気がした。
絳攸に促され流珠達がいる部屋へと向かった静蘭は、本当に流珠が帰ってきていたのならばその場ですぐに彼を叱るつもりでいた。
どうして七年も帰ってこなかったのか。なぜ一度も連絡をいれなかったのか。そもそも、何が彼を「家出」に駆り立てたのか。全ての理由をはっきりさせたかったわけではない。愚かではない彼には彼の考えがあったのだろうし、それを否定することは静蘭にはできはしない。けれど、それでも静蘭にとって流珠は守るべき対象、子どもでしかないのだ。悪いことをすれば叱って、それが他者にとっての悪いことだったのだと認識させなければならない。そして、それをするのはおそらく彼の父である邵可ではなく、自分の役目なのだと静蘭はわかっていた。
それゆえに彼が家を出てから七年間、こつこつねちねちと考え続けていた指六本分の冊子を埋め尽くす量の小言を、たっぷり時間をかけて流珠に言うつもりだったのだ。そのための原稿は、静蘭の室の書棚で今も利用される日を待っている。ほとんどの内容は覚えているが、あまりに数が多くなってしまったために忘れてしまっても大丈夫なようにとの保険だった。
けれど、それを使う機会はどこかに失せてしまったのかもしれない。静蘭は思う。
あの時、室に入った瞬間に見た、秀麗の泣き腫れた顔。
それを見たときに、静蘭は自身の中で育ててきた憤りが正しかったのか、彼にしては珍しく揺らいでしまったのだ。静蘭の考えを変革できる数少ない人物が、静蘭の考えを否定した所為で彼は自分がすべき行動を、見失ってしまったのかもしれない。
泣くことで、流珠の行動を否定し無理やりに引きとめようとした秀麗と、
叱ることで、肯定も否定もせず受け入れようとする静蘭と、
目の前の所在が安定しない少年に対し、求められるべきはどちらなのか。静蘭は、その答えを持ち合わせていない。
「…流珠様」
「ん?どうかした、静蘭」
静蘭よりも拳二つほど小さい流珠が、静蘭を見上げる。名前を呼んだはいいが、繋ぐべき言葉が見当たらず、静蘭は久々に見る彼の顔をまじまじと見つめた。
その視線が流珠の口元に到達したとき、静蘭ははっとして声をあげた。
「その傷は…どうされたのですか?!」
「傷…ああ、これ。なんでもないよ。ちょっと切っただけで」
静蘭が見つけたのは流珠の顔の左側、丁度口の端の部分に残るまだ新しい赤い傷痕だった。あまり目立ちはしないが、よくよく見てみれば若干左頬も腫れているようにみえる。ちょっと切っただけ?とてもそうとは思えない傷だ。どう考えてもこれは、
「一体誰に、殴られたんですか?!」
先よりも距離を狭め、詰めよるように静蘭は尋ねる。流珠が内心「やっぱり駄目だったか」と考えていたことはさすがに知らない。
「いや、静蘭…殴られたって決め付けないでよ」
「では誰に叩かれたんですか?その傷で壁にぶつかった転んだなどの言い訳は当てはまりませんよ」
「…相変わらず、容赦ないね。静蘭ってさ」
苦笑を零しつつも流珠の纏う雰囲気は重たくはなく、どちらかといえば呆れているように静蘭には見えた。その対象が誰かどうかはわからなかったが、ひとつ小さな息を吐くと流珠は僅かに口元を引き締めて言う。
「静蘭の言うとおり、この傷はある人に殴られて出来たものだよ」
「ですから、いったい誰が」
「でも、静蘭が思うような経緯で出来たものじゃないんだ。
ぼくにとってこれは、殴られるべき理由で生まれたもので、気にしてもいないし殴った相手を恨んでもいない。むしろ、感謝してるくらいなんだ。
だからさ、静蘭にも気にしないでほしい。仮にぼくを殴った相手がわかったとしても、なにもしないでほしい。このことで彼を責めるようだったら、ぼくが静蘭を責めるよ。
…静蘭にだって、ぼくの気持ちはわかるよね」
おんなじ男同士だし。そしてはっきりと微笑んだ流珠には言葉の通り怨みも辛みも一切なく、尋ねた側の静蘭の毒気までも奪い取っていくかのようだった。
わかるよね、と問われ、わからないと言うことはできなかった。男同士は殴り合ってこそ理解できる!などとどこぞの熱血馬鹿のような発言はしないが、時には身をもって解かりあわねばならないのも世の理のひとつであることも事実。
しかし、だからといって流珠を殴った相手になにもしないでいることなどできるわけもなく。どうにか相手を聞き出せまいか、あるいは読み取れないかと脳内で策略を練り上げていると、不意に流珠の眼球が左右にぶれた。なんだ、とつられて静蘭も周囲に意識を向けてみれば、十歩ほど先の書架の影に掠れる程度の気配があることに気付く。
「……から、声が……んだ」
首を回して気配の主を確認した流珠が呟く。
独り言の如く吐かれたその声はあまりに小さく、静蘭の耳に届く言葉は少なかった。