彼女がみつけた小さな明鏡 3
扉は、勿体振るようにゆっくりと開いた。
邵可と秀麗、そして流珠の視線を一挙に受け現われたのは、流珠が思っていた通りの人物だった。おそらく邵可も同様に予想はしていたのだろう。その表情には驚きの欠片も見当たらない。それに気付いた秀麗は、自分が先まで泣いていたことを思い出し、慌てて手拭で顔を隠した。
戸を開けた静蘭は、室の中を一瞥すると何かを呑み込みそこねたような苦い表情を浮かべた。彼の視線はある一点を向いている。その先に何があるのか、目を向けなくとも解かった。けれど秀麗の目の前に座る相手はそんな視線など素知らぬ顔で。なんとも平凡な笑みを浮かべ、流珠はさらりと流れるように言った。
「やっ、静蘭。七年ぶりだね。元気だった?」
「りゅ…流珠、様」
「相変わらずの若作りだね。七年前から全然変わってないから、すぐにわかったよ」
突然室を訪れたのは静蘭の方だったのに、面を食らって時を止めてしまったのも静蘭の方だった。ああ、そういえば昔からそうだったわね。幼い頃の日々を思い返し、秀麗は思った。秀麗が物心ついたころから、家族の予想を裏切ることが得意な弟だった。七年前、行き先も告げずに出ていってしまったこともそうだが、庭院に農家並の畑を作ったことだとか、母が亡くなった後の行動だってそうだ。細かいものも挙げていけばきりが無い。それは良い意味での裏切りでもあったが、同じくらい逆の意でのものもあった。今日のこれはいったいどちらの裏切りなのだろう。表情を引き締め、早足に流珠に近づいてくる静蘭を目で追いながら、秀麗は考えあぐねた。
「流珠様…貴方は、」
「そうだ。言うのが遅くなったけど…ただいま、静蘭」
「……………お帰りなさいませ、流珠様」
口を一文字に引き結ぶという静蘭にしては珍しい表情でそう述べた様子に、秀麗は思わず笑ってしまう。静蘭をこんな風に扱えるのは、おそらく父と弟くらいだろう。もしかしたら他にも友人がいるのかもしれないが、正直秀麗には中々想像できなかった。
静蘭の追求を無理やりにではあったが押しのけた流珠は、もう一度噛み締めるようにはっきりと「ただいま」と口にすると、朗らかな表情のまま再び秀麗の方を向いた。
流珠の表情は優しい。先ほど秀麗をあやしていたときの声音のように甘ったるく、そこには他者を安心させるための全ての要素が詰め込まれているように秀麗には見えた。けれど同時に、その笑みの中には沢山の嘘が含まれていることを、秀麗は知っていた。大丈夫だと告げる声は温かかったけれど、言葉はとても冷たかった。おいていかないといいながら、決してそれを「絶対」と言わない態度は頑なで、信じることなど不可能だった。そして何より、秀麗は気付いていた。流珠が自分に対して口にすることを躊躇っている一言に。
(「ただいま」って、私には言ってくれないの?)
尋ねられればどんなに楽だろう。けれど、それを問うて返ってくるかもしれない作り笑いを想像すると、秀麗の心はいとも簡単に凍りつく。たった一言、四文字の単語でしかないけれど、それは秀麗にとって非常に重い意味を持っていた。それを流珠が知っているわけはないのに彼も躊躇っているということは、あまりに自分が求めすぎている所為だろうか。
ただいま。外出から戻って来たと告げる言葉。自分の家を、住処を名付けるための単語。いつか帰ってくるのだという、契約の証。
流珠が家から消えたとき、秀麗が彼の絶対の帰宅を信じられなかった理由もそこにあった。それは秀麗だけが抱いている感情で、他の誰に話したところで同意などされないのだろうとわかっている。けれど、いつだって「それ」をしてきた秀麗にとっては絶対だったのだ。
八年前の大飢饉で、秀麗は朝、家を出る家族に必ず言葉を投げかけた。
いってらっしゃい。
何の意味も持たない、ごく当たり前の朝の挨拶でしかないその言葉も、当時の秀麗には深く重い意味を持っていた。
いってらっしゃい。そう送って、帰ってこない可能性を否定することはできない。
いってらっしゃい。見送る背も、これが最後かもしれない。いってらっしゃい。
本当は行かないでほしいのに、引き止めることもできない秀麗はただその短い単語に、沢山の感情を乗せることしかできなかった。毎日毎日、心の底で泣きながら。引き止めたくて、伸ばしたくなる手を必死にとどめて。彼らが帰ってきたときに「お帰りなさい」と笑って言えるように。家族が同じように「ただいま」と現われてくれることを願いながら、秀麗は彼らを見送っていた。
その時から、秀麗の中では「ただいま」は「いってらっしゃい」と見送った秀麗に返される対となる言葉で、「いってらっしゃい」と言えば「ただいま」と帰ってくるのだという約束の言葉となっていた。明確な理由はなかった。きっと、他の誰に言っても一笑されるような思考でしかないのだろう。けれど、当時の秀麗はそんな風に考えでもしなければ、待っていることが出来なかったのだ。八年前、まだ幼かった秀麗が縋れるものは、それくらいしかなかった。
けれど、そんな秀麗の想いなど気付かぬ素振りの流珠の表情は、何ひとつ変わらない。
「それじゃあ姉さん。ぼく、そろそろ行くよ」
「え…っ」
「昨日戻ってきたばかりで、まだご近所さんに挨拶も済んでないんだ。不審者にでも間違われたら嫌だし、町も見て回りたいしね。
それに、いくら家族だからって、なんの位も持たないぼくが貴妃である姉さんと長い時間一緒にいるわけにはいかないから」
そう言って流珠は名残惜しそうに一瞬眉を下げ、秀麗の前から立ち上がる。
引き止めたくて伸ばしかけた腕は、宙に浮くよりも先に自分の意思によって止められた。袖を引いて、いったいどうしようというのだろう。秀麗の目の前から色が失せていくかのようだった。言葉が、ただのひとつも浮かばなかったのだ。七年ぶりに再会する弟と向き合って告げるべき最初の言葉が、今の秀麗の中にはひとつも存在しなかった。
だから流珠は秀麗を振り返ることもせず、静蘭の横を通り抜け戸に手をかけると、思い立ったように邵可に視線を向けた。
「姉さんのことよろしくね、父さん」
それじゃ、また今度。
まるで邸の中、自分の室に戻る挨拶でもするようにあっさりと、流珠の背は秀麗の視界から消えていった。そして、それを静蘭が一度だけ秀麗の顔に目を向けてから慌てて追いかけていく。
室に残されたのは秀麗と邵可のふたり。
何も喋らず何かを待っているような父がつくりだす沈黙の中で、秀麗は手の中の手拭を強く握った。
かけるべき言葉は、いまだ一字もみつからない。
それが流坊の本質かどうかは、またの機会に…