彼女がみつけた小さな明鏡 2
(これは…ちょっと、まいったな)
先よりも少しばかり弱まったけれど、それでも皺がしっかりと残るほどに強く衿を握る姉の背を撫でながら、流珠は困惑していた。
邵可に案内され通された府庫の一室は、掃除の行き届いた小奇麗な空間だった。流珠と秀麗が腰を預けている簡素な寝台と机案が一組。室を片付けているのが秀麗なのか下っ端の官吏なのかまでは知らないが、父でないことだけは間違いないだろう。大きな染みひとつ見当たらない壁を見渡しながら、どうでもいいことばかりを流珠は考えていた。
(これもひとつの、現実逃避ってやつなのかな)
心の内で大きく溜め息を吐き、伏せった瞳をあげる。視線は窓際の椅子に座った邵可と合った。相も変わらず柔和な笑みを崩さない「紅秀麗」と「紅流珠」の父親は、実に嬉しそうだ。おそらく、流珠のやっかみではなく本気で喜んでいるのだろう。姉と弟(実際には妹だが)の七年ぶりの再会を。実に模範的な良い父親像だ。きょうだいの感動の再会を邪魔せぬように自分は口出しせずそっと見守る。あまりにも模範的過ぎて、流珠は心底泣いてやりたくなった。
確かに今の秀麗と流珠は構図だけをみれば、感動的な再会場面を演じるきょうだいである。先ほど再会の瞬間に立ち合わせた某吏部侍郎も、おそらく素直にそう受け取ったからこそ、秀麗や流珠、邵可に気遣って「自分のことは気にせず」などと言って流珠らを見送ってくれたのだろう(かなりどもりながらではあったが)もしも彼と同じ立場であったなら、間違いなく流珠もまったく同じ行動をとっただろう。むしろ他人の家族の問題に流珠はこれっぽっちも関わりたいと思わないので、諸手を挙げて席を外すはずだ。
李絳攸がそんな非道なことを考えて気を遣ったとは到底思えないが、彼の行動もおそらく模範的な行動だったと流珠は思う。あの場にあったのは、七年ぶりに戻ってきた家出少年と、その帰宅に涙を流す心優しき姉という図。泣いている秀麗のためにも、紳士的かつ常識的な選択だったことは間違いない。
それがわかっているからこそ、流珠は泣いている秀麗とともに自分を室に追いやった李絳攸ではなく、同じ空間に今もいる父を恨めしく思った。あの父に、自分の今の心情がわからないわけがない。予想外の事態にどうして良いのか困っていると表情でも必死に訴えているにもかかわらず、助け舟のひとつも出そうとしない邵可に、不可能だと解かっていながら流珠は本気で文句が言いたくなった。
(そりゃ確かに庇えないとは言われてたよだけどこれは別に怒られてるわけじゃないんだし父親なら泣いてる娘を慰めるくらい当然の行動だろいや、弟としても当然かもしれないけど…)
泣かれるなんて、思ってもいなかった。
頭の中を駆け巡った様々な罵詈雑言の中で、ぽつりと零れた小さな戸惑い。静かな水面に零れた雫の波紋のように、弱々しいはずのその感情が流珠の中に染み渡った。
耳には今も、小さな声で続く姉の嗚咽が留まることなく聞こえてくる。姉の泣き声を聞いたのは、七年ぶりだ。当たり前のことが当たり前でないように頭に浮かんだ。同時に、あんなにも人前で強い姉を、こんなにも弱くしてしまった自分に殺意が沸いた。
「姉さん、大丈夫…大丈夫、だから」
もう、どこにもいったりしない。姉さんをおいて、どこにもいかないから。
か弱い背に優しく触れながら耳元で囁けば、ほんの少しだけ衿を掴む姉の手が強くなった。きっと、秀麗にもわかったのだろう。流珠の言葉に真実などただのひとつもないことが。そして、同様に流珠にも解かってしまった。秀麗がこんなにも、自分を信用していないという現実が。
流珠はずっと考えていた。貴陽に戻って姉や家人と再会すれば、間違いなく第一声に怒声が待っているのだろう、と。自分が旅に出たことが家族にどれだけの心配をかけたのかくらいは理解しているし、七年という月日がとても「おかえり」と笑えるような時間ではないことも承知していた(例外もあるが)それと同じように、「流珠は必ず還ってくる」と、家族は知っているのだと、流珠は思い込んでいた。だから、怒られると思ったのだ。感激や感動ではなく、あまりにも遅すぎる帰宅と、何も告げて行かなかったことへの怒り。それだけが、待っているのだと流珠は思い込んでいた。「必ず還ってくる」と知っていれば、深く大きく予想外に感情を揺さぶられることなどない。だって、最初から結果は知っていることなのだから。ただ、それが何時になるのか解からなかっただけで、涙を誘うほどの衝動など起こるわけがないのだ。けれど、
(姉さんには…信じられなかったんだ)
家族として共に過ごしてきた「紅流珠」も、文字を通して認識していた「」も、紅秀麗は強い人間だと考えていた。もちろん、常に強い人間ではない。泣きもするし迷いもする。間違いだって何度も犯す。けれど、それでも前を見続け、少しでも正しい路を見つけようと努力のできる人間だと思っていた。自分を弱める感情を、大っぴらに見せないような強がりをする人間だと思っていた。
それから ―――――――― 誰よりも家族を信じられる人だと、思っていた。
(でも、無理もない…か)
小指の先ほどの罪悪感で疼いたのは、心臓の辺りでも頭でもなく背中だった。
それから、ちっぽけな贖罪の念を蹴散らすほどに大きく浮かんだのはどうしようもないほどの安堵感だった。信じられるよりも、その方が楽だ。流珠は自分が今、笑ってしまっているのではないかと焦り、口元に力をこめた。
「聞いて、姉さん」
先ほどよりもはっきりとした声で、流珠は言った。
七年前に別れた時とは違う音を拒絶するように、頭を肩に埋める姉の力が強くなったのがわかった。けれど、それを流珠が承諾するわけにはいかないことは、秀麗にだってわかっているはずだ。
どんなに強く望んだところで、離れていた七年間をなかったことにすることはできない。秀麗が七年で成長し変わったように、また流珠も変わった。否、変わらないわけがなかった。たとえそれが、受け入れがたい事実だったとしても。
「…姉さんに黙って、七年も邸を出たこと…悪かったと思ってる。だから、これからはできる限り家族で過ごせるようにする」
「………」
「でも、それはずっとじゃない。姉さんがこうして朝廷で働いているように、"絶対においていかない"なんて、これからはぼくにも姉さんにもできっこない。離れないなんて、不可能なんだよ」
「…、」
小さな小さな、ともすれば簡単に攫われてしまいそうな声で誰かが「知ってるわ」と呟いた。そう、彼女は弱いだけの人ではない。愚かでも間抜けでもない。流珠は確信した。姉は、最初から知っているのだ。「紅流珠」が戻ってきたときが、決定的な別離のときであることを。
「心配しないで、姉さん。…姉さんを守ってくれる人がぼくと父さんと静蘭以外に現れるまでは、姉さんのことはぼくらが守るよ。それだけは、約束する」
傍にいること、離れないこと、ずっと一緒にいること。
約束できないことを約束することはとても簡単だけれど、秀麗はそれで許してくれるような人間ではなかったから、流珠は「本当に守ることができること」を口にした。
小さく、姉の肩が震えた。けれど、いつのまにか続いていたはずの微震は止まっていた。窓辺で無責任な父が変わらぬ笑みを浮かべたまま頷いていた。予想通りの再会とはほど遠かったけれど、今後にしこりを残さないためならば、これでよかったのかもしれないと流珠は思った。
肩と衣にかかる圧力が大分弱くなったことを確かめてから、流珠は懐から淡い萌葱の手拭を取り出し姉に手渡した。手拭を受け取りやっと先ぶりに向き合った姉の表情は、泣いた直後の所為か腫れぼったく赤く色づいて(化粧も落ちて)いたけれど、無理やりに涙を拭い微笑んだ姿は凛として綺麗だと素直に感じた。
さて、次の言葉はなんだろう。「ただいま」と「ごめんなさい」を頭の中に並べていると、丁寧な調子で二度扉が叩かれた。どうやら、安堵するのはまだ早そうだ。内心盛大に息を吐きながら、ゆっくりと開く戸に流珠は視線を向けた。