彼女がみつけた小さな明鏡 1



「紅流珠、か」

窓辺に置かれた机案で本の頁をめくりながら、絳攸は彼の名を初めて口にしてみた。男名にしてはどこか美しすぎるようにも思えるが、響きこそ違えど自分と良く似た意味を持つ彼の名に違和感はない。むしろ、短い時間とはいえ初めて彼の少年の顔を直接に見て、あれほど似合う名もないのではないかと思ったほどだ。

(どことなく…邵可様に似ていたな)

光を吸い込む髪の色だとか、目鼻の形。どちらかといえば彼は父親似なのだろう。意志を秘めた強く潔い瞳が特徴的な秀麗よりも、底の見えない雰囲気が邵可にそっくりだった。秀麗に向かって微笑みかけた表情など、幼い邵可のようだと絳攸に思わせたほどだ。顔立ちがそっくりそのままというわけでないのに纏う空気ばかりが同じで、血の繋がりが持つ絶大さを絳攸は実感せずにはいられなかった。先ほど回廊で邵可が口にした言葉の意味も、今なら合点がいく。確かにあの少年ならば、某吏部尚書にして絳攸の養い親を浮上させるのも容易いだろう。なにせ、あんなにも邵可に似ているのだから。

流珠が現れる前に秀麗が用意した茶器に手をのばし、絳攸は残ったお茶を一気に飲み干した。喉が渇いているわけではないが、手持ち無沙汰な時間を埋めるためもう一杯茶を淹れようかと、用意してあった差し湯に手を伸ばしかけた刹那 ――――― キィと扉の軋む音が鳴り、三人の男が姿をみせた。

「秀麗、遅くなってすまな…」

先頭に立っていた歳若い青年は、中途半端に言葉を区切ると目を僅かに大きくさせてきょろきょろと周囲を見渡した。彼の行動に、背後に控えていた二人の青年も「おや」と不思議そうに首を傾げる。

「おや、まだ秀麗殿は来ていないのかい?」

若い青年の後ろに控えていたうちの一人、藍楸瑛が言った。その視線が机案から近い位置に置いてある差し湯に向いているところからして、おそらく口にした言葉と内心とでは随分と思考が掛け離れているのだろうと、その場にいる誰もが感じ取る。机案に茶菓子が乗っていたと思われる皿が置いてあることからも、楸瑛の問いの答えは明らかだ。絳攸は、くだらないと思いつつ解かりきった回答をつまらなそうに口にした。

「もうとっくに来ている」
「では、席を外しているのかな」
「いや…今日の講義は欠席だ」

思いがけない回答に楸瑛含む三人は思わず顔を見合わせ目を瞠った。
前半に関しては予想通りの答えだった。けれど後半については、秀麗のことを少しでも知っている人間ならばおかしいと思わずにはいられないだろう。かくいう青年三人もそれを鵜呑みにすることが出来ずに、驚きを露わにしたまま絳攸に視線を寄越す。あの秀麗が勉強を欠席?理由もなく、しかも府庫に訪れておきながら?彼らの眼は間違いなくそう語っていた。予想通りの反応に、絳攸は小さく息を吐き、府庫の奥を指差した。

「今、秀麗は邵可様と共に奥の室にいる」
「邵可と?ならば余も」
「残念ですが、主上には私との講義が待っています」
「うぅ…だ、だが」
「それに」

主上、と呼ばれた青年は絳攸の瞳に一瞬だけ映った感情を見取り、目を瞬かせた。それは、自分や秀麗には未だ向けられたことのない温かな眼差しだった。郷愁や慕情に似た、慈しみの想い。
ほんの僅かな間で消え去ったその感情に、おそらく楸瑛も ―もう一人の青年― 静蘭も気付いたのだろう。絳攸に向いていた視線が、いつのまにか府庫の一室へと向いていた。
ここにいない誰かに向けられているのであろう感情を微かに残したまま、いつもよりも刺の少ない口調で絳攸が言う。

「久方ぶりの家族の時間を邪魔するなど、あまり良い趣味とは言えませんよ、主上」
「久方…ぶり?どういうことだ、絳攸。秀麗と邵可は毎日府庫で逢っているではないか」

極自然な主上の問いに答えず、絳攸はちらと静蘭の顔を盗み見た。確か彼は、紅家の家人だったはずだ。おそらく、これだけの言葉でも十二分に理解できるだろう。
絳攸の思惑通り、抽象的な先の言葉だけですべてを察したらしい静蘭は、彼にしては珍しく顔の色を失くして数度大きく瞬きをした。その口からは今にも「まさか」という呟きが聞こえてきそうだ。しかし、驚愕を示す単語は結局零れることはなく、彼が口にしたのは先ほど絳攸が紡いだばかりのある少年の名だった。

「流珠様が…いらしているのですか?」
「ああ、七年ぶりらしいな。君も、行ってくるといい」
「え、えぇ。主上、藍将軍。申し訳ありませんが、御前を失礼致します」

早口にそれだけを口にすると、静蘭は振り返りもせずに府庫の奥へと消えて行った。そして残された主上と楸瑛は、二人のやりとりの不可解さに顔を見合わせ、それから再度絳攸へと視線を戻した。

「絳攸、いったいこれはどういうことなんだい。私にも解かるように説明してくれないかな」
「そうだぞ、絳攸。これでは余にもさっぱりだ」
「説明もなにも、言ったとおりですよ。奥の室に今、秀麗と邵可様がいらっしゃいます。 ――――――― 邵可様のご子息とご一緒に」
「邵可の…息子、だと」

ああ、やはり主上と言えど知らなかったのか。ちらと視線を横に動かせば、付き合いの長い腐れ縁の友人も明らかに困惑に似た表情を浮かべている。どうやら紅家に並ぶ名門貴族の四男、藍楸瑛ですら把握外のことのようだ。二人の反応を目に、絳攸は自分が不知でなかったことに安堵し、同時に誰にも知られていない(藍家、主上に知られていないとすれば、国でその存在を正確に知っている人間などほんの僅かだろう)少年の存在に初めて違和感を覚える。本当に、彼は紅家の人間なのだろうか。頭に浮かんだ愚かな考えは、紅邵可とその家族(ついでに某吏部尚書も)が彼のことを受け入れていることからも容易に否定されるが、ではなぜ彼のような存在がこれまでまったく表に出てこなかったのかという疑問は消えなかった。
おそらく、同じことを彼らも考えているのだろうと、絳攸は無言のまま立ち竦む二人の青年を見て思う。
呼吸数十回分の間を空けて、沈黙を破ったのは彼らの中で最も地位の高い、歳若い国王だった。「そういえば」と何かを思い出すように、彼は探るような口調で言った。

「以前、秀麗がひとつ年下の弟がいると話してくれたことがある…確か、流珠といって、畑で野菜を育てるのが趣味だと言っていた」
「野菜…?それは、随分と変わった趣味、ですね」

楸瑛の相槌には、間違いなく「紅家の跡取の趣味としては」という意味が籠められているのだろう。当然だ、と絳攸は思う。紅邵可の息子といえば、ある意味で非常に楸瑛に近い立場の少年と言える。むしろ、彼よりも彼の兄、もしくは弟に近いと言っても過言ではないだろう。それが趣味「家庭菜園」?そんじょそこらの貴族や高官が聞けば、「ご冗談を」と鼻で笑うような内容だ。
だが、絳攸はそれを笑おうとも、信じられないと言うつもりも更々なかった。相手は紅家の人間だ。一筋縄にも二筋縄にもいかないことは、初めから十二分に解かっていることである。

(むしろ、黎深様の甥にしてはかなりまともな趣味だ…)

やはり、邵可様の息子であることが強いのだろうか。そういえば秀麗も黎深様に比べたらかなり普通の少女だ。紅家と言えど、おかしなのは自分の養親だけなのかもしれない。自分の考えに半ば凹みそうになりつつも、絳攸は必要だと思われる要点だけをさっさと述べ連ねる。

「趣味については知らないが、名前は紅流珠。秀麗の弟で七年前から昨日まで貴陽を離れていたそうだ。今日は霄太師からの召喚を受け朝廷を訪れたらしい」
「へぇ。七年も貴陽を出ていたのかい?もしかして、紅州の本家の方へ行っていたのかな」
「いや…それはおそらくないだろう。紅家長子の嫡男が紅州の本家にいるとなれば、噂にならないはずがない」
「確かにそうだね。私も…邵可様に息子さんがいるなんて初耳だし。その様子だと絳攸も今日初めて知ったんだろう?」

楸瑛の問いかけに無言で頷く。「ふむ」と呟いた楸瑛は、予想通りの反応にどこか不満げだ。おそらく、誰にも知られていない紅家直系の男子に考えることが多すぎるのだろう。どこを見ているのか解からない視線は鋭く、何を考えているのかも掴ませない。曲者だな、と絳攸は改めて思う。彼はいったいどう動くのか、仮にも紅家当主の養子である以上探りをいれる必要があるだろう、と絳攸が口を開きかけた瞬間、ぽつりとそれまで沈黙を守っていた青年が呟いた。


「邵可の息子で秀麗の弟…紅流珠、か。
 余も、ぜひ逢ってみたいな。きっと、面白い少年なのだろう」


日当たりの良い府庫の窓際で、話題に上った本人を余所に続いていた会話は、素直な感情の詰まったその言葉で区切られた。