盆にかえった覆水 6



二回扉を叩くと、大して間を置かずに父が現れたことに流珠は驚いた。
外観からして、かなりのサイズがある建物である。裏口なんぞをノックしたところで(それも比較的軽くだ)反応が返ってくることはないと踏んでいただけに、即座に誰かが出てくることなど想定外も甚だしい。

(できれば…自分のペースで行きたかったのに)

流珠の当初の計画としては、書架、もしくは閲覧席で集中している姉の背中に声をかけるくらいの意表を突いた再会をするつもりだった。というか、それくらいのことをして相手のペースを掻き乱さないと邂逅(開口)一番怒濤の如く説教に襲われることが目に見えている。無論、どんなに初めの一歩で説教を逃れたとしても、後から襲われないという保証はどこにもないのだが、それでも出来る限り後へ後へと引き伸ばし、叶うことなら逃げ切りたいと思うのが人間の心理というものである。
しかし、そんな儚い願いも父の登場によって木っ端微塵に砕かれてしまった。
にこにこと先ほど別れた時となんら変わらぬ父の柔らかな笑みに、これほどの不条理さを感じるのも久しぶりだ、と流珠は思う。もちろん、父に罪がないことなど重々承知だ。これは所謂、八つ当たりというものなのだから。

「思ったより時間がかかったみたいだね」
「あーうん。ちょっと、色々あって」

実は途中で道に迷って、自分の精神的そっくりさんに逢っちゃたんだよ。
なんてことは決して覚られてはならないと、流珠は「朝廷三師に逢って緊張したよ」と適当に言葉を紡ぎ苦笑してみせた。邵可は「大変だったねー」と同意の意を口にしたが、実際に信じて貰えたのかは半々だろう。何があったのかまでは悟られずとも、何かがあったことは間違いなく筒抜けなはずだ。なんといっても、広いようで狭い朝廷内の出来事。どこでなにをしていても、誰かが見ていると思ったほうがいい。

(…こんなとこで毎日過ごせる人の神経疑うな)

つい数ヶ月前まで過ごしていたとある場所は、ある意味で朝廷に比較的似た場所と言えたが、こんなに全てが信用できない世界ではなかった。少なくとも自室と、雇い主の側と、某州牧の隣においては、気を抜いても大丈夫だと思える空気があった。それに比べて、ここはどうだろう。興味深い本と父に添われても、安心の欠片も感じない。あるのは ―――――――― 巨大な獣の大きな口と鋭く尖った牙だけだ。

「ほら、こっちだよ」
「…へえ」

半ば惰性で開いた口からは、感嘆とも取れる溜め息が零れた。扉の向こう側に広がっていた、本の森と称するに相応しい空間には確かに多少の感激は覚えた。できればこの中にある農業関係の本については端から端まで読んでみたいとも思う。ああ、そのために官吏になるのも悪くないな、と流珠は半ば本気で考えたほどだった。
けれど、これだけの書に囲まれても、浮かんだものはそれだけだった。

小さな頃は父や家人に文字を習い、本を読めるようになったことが嬉しくて仕方がなかった。もともと簡単な読み書きは日本語からの派生でなんとかなったが、やはりこちらの世界は中華風。完全なる漢文の読み書きを習得するには、それなりの苦労も努力も必要だった。けれど、優秀な教師二人のお蔭で叶った願いは、結局流珠に落胆しか与えてくれはしなかった。
そう。そこにはなにもなかったのだ。
流珠を否定するものも、「」を肯定するものも。
なにひとつ、紙の上の文字は答えもヒントも示してくれなかった。家の中の何百、何千という本を端から端まで読み進めても、最後に残ったのは目を腫らせた自分だけ。
心のどこかで、やはり諦めきれていなかった「」だけの存在は微塵も残さず否定され、ようやく流珠は気付いた。自分に残された、たったひとつの証明方法に。



一定間隔で規則正しく配置された本棚の間を進む。一歩前を歩く父が、通路の向こう側を向いて何か喋ったのが見えた。口の動きから察するに、自分のことを「お客」と呼んでいることが流珠にも解かった。なるほど、父は父なりに、姉を驚かそうとしているらしい。
すいと音もなく、邵可は通路を流珠に譲る。足を一歩前へと動かせば、本棚で隠れていた自分が相手の目に映る場に現れてしまったことに、流珠は同じように相手を確認して気付く。

七年ぶりに顔をみた姉は、ちょっと滑稽なくらいに綺麗に着飾っていて、流珠は自然と口元が緩んでいく気配を感じた。
自分たちの生活からは想像もつかない高級な衣を身に纏い、髪は複雑に結われ煩くない程度の宝飾が飾られている。確かに姉の綺麗な烏の濡れ羽色の髪に似合っている。けれど、それでもどこかで違和感を感じてしまうのは、そもそも姉が本当の貴妃ではない所為なのだろう、と流珠は思った。
目の前の少女は、服の上から胸のあたりを強く握り締めていた。そこに何があるのか、流珠は知っている。だからこそ、姉が貴妃であることが滑稽で仕方がなかった。こうなることを「」の記憶として知ってはいても、笑いは込み上げてくる。これからこてんぱんに怒られるという事実すら、忘れてしまいそうだった。


「……あ…」
「七年ぶり、だね。すごく綺麗になってるから、びっくりしたよ」


流珠の予想を裏切って、姉はその大きな目を更に丸くしたまま暫く固まっていた。どうしたというのだろう。てっきり、顔を見た途端雷が降ってくるのだと思っていたのに。
数拍の沈黙を挿み、次いで声を発したのは秀麗だった。その声はひどく掠れていて、彼女が如何に平静を失っているのかが邵可や流珠だけでなく、絳攸にも手に取るように理解できた。泣き出しそうな、けれどどこか期待しているような。乾いた音で秀麗は、彼の名を呼んだ。

「流珠…なの?」
「ひどいな。ぼく、そんなに変わった?」
「だ、だって流珠は…あの時…っ」

その先の言葉は、秀麗の口からは零れ落ちはしなかった。はっと唇を紡ぎ、喉の奥にもう一度仕舞い込むように飲み込まれた単語がいったいなんだったのか、流珠には痛い位によくわかる。姉にこれだけの傷を与える可能性もあるだろうとわかっていながら、消えたのは流珠なのだから。
ほんの僅か、口にすべき台詞を探したあとで、流珠は自分の首に触れた。そこには、薄茶の紐がかけてあり、流珠は服の下へと続くそれを器用に手繰り寄せる。姿を現したのは、姉と揃いの腕環。鈍く輝く環に、姉の視線が注がれるのがわかる。首から紐を外し、流珠は数歩足を進めた。同じように秀麗も覚束ない足取りでこちらに近づいてくる。互いに手を伸ばせば届く程度の距離で、流珠は手に持っていた片環を姉の白い手の平にそっと乗せた。


「これで…信じてくれる?」


笑えたのは、こんなものなんの証拠にもならないと、流珠自身が一番よく知っていたからだった。
体についた傷だとか、顔の造りだとか。家族であるならば、そう言ったものの方がよっぽど証拠になるだろう。物体なんて、手から手へ移動してしまえばそれまでなのだから。けれど、流珠は思う。それでもぼくら二人の間で、これほど証になるものも、ないんじゃないかと。なんの特別な力も、呪いもかかっていないただの腕環だ。けれど、それが母の唯一の形見であるという事実が、ちっぽけで古びたふたつの腕環を、代わりの利かない唯一のものにしてくれる。
誰も知らない。父も、家人も、知っているかもしれないが決して口にはしない。二人だけの秘密。おそらく姉も、腕環の由来を誰かに話すことはこれまでもこれからも無いだろう。そして、それは流珠にとっても同じことだった。

手の平に乗せられた小さな環に視線を落す秀麗の反応を、流珠は待った。
微動だにしなかった彼女の指先が、いつの間にか震えていた。初めは微弱だったそれが段々と体中に広がって、気がつくと秀麗は肩を震わせ泣いていた。
ぽたり、ぽたりと大きな雫が府庫の床に落ちる。無意識に雫の軌跡を目で追っていた流珠は、再び顔をあげたとき、秀麗が自分の方を真っ直ぐに見つめていることに気付いた。
彼女の小さな唇が、声に鳴らない声で、流珠の名を呼ぶ。


「……っ!!」
「うわっ!」


唐突に飛び込んできた衝撃に、流珠は堪えきれずに尻餅をついた。
そんな流珠の腕の中では、声を殺さずに泪を零すたったひとりの姉が ―― 流珠の守るべき存在が ―― 千切れるほどにきつく流珠の衣の衿を握り締めていた。