盆にかえった覆水 6
「……………」
流珠は悩んでいた。
某腹黒狸とその同僚(ひとりはとても素晴らしい好人物だ)のいた室を離れて間もなく、聞こえた馬鹿笑いの原因に妙な心当たりがあったこととか、明日からはじまる予想もしていなかった賃仕事をどうしようかとかいったことではなく、流珠にとってはもっと切実で実害ある問題に直面していたためである。
「………まさか、こんなに広いなんて…」
目の前には直進に加えて左右に伸びる行き先不明の三本の道。ちなみに、目的地に関しては未だ屋根さえ見えない。
「父さんに…地図描いて貰うんだったな」
口頭で道順を聞いていたのだが、さすがにこうも曲がり道や似たような建物が多くては方向音痴の気がない流珠と言えど困惑するというものだ。耳にした記憶だけを頼りに進んできたが、どこまで進んでも目的地の影すら見えずさすがに嫌な汗をかいてきた。一旦、先ほどの室に戻って一から考えようかとも思ったが、後ろを振り返ってみれば似たような扉ばかりで元の室を探すことすら難しい。我が家もそれなりに広いが、さすがは朝廷。国の王の邸である。某義賊の台詞ではないが、明日以降はコンパスの持込みが必要そうだと真剣に流珠は考えてしまった。
「…さて。どうしよう」
どうしようと口にしていても、考えられる方法はひとつしかない。その対象を見つけるべく、流珠は周囲をきょろきょろと見渡した。が、もしや外朝を出てしまったのだろうか、と不安になるほど赤を基調とした通路には人通りがない。仕方なく踵を返そうとした流珠だったが、それよりも先に左の通路からこちらに向かってくる人物に気付く。手元の資料に視線を落したままぶつぶつと何かを呟いているらしい人物は、伏せた顔と体付きだけを見ても随分と若いことがわかる。なんとも好都合。流珠は「うしっ」と小さく意気込んでから早足で彼に近づいた。
「あの、すみません」
「…何か?」
「不躾で申し訳ないのですが、府庫への道順を教えていただけないでしょうか」
尋ねると、資料から顔をあげた青年がなにか不思議なものでも相手にするように流珠を見た。真正面から顔を見ると、やはり彼がかなりの若者であることがわかる。おそらく、流珠と五つも離れていないだろう。身長もさして高い方というわけではなく、体つきが華奢な分少年と言っても強ち間違いではないようにも思える。だが、それでも流珠が彼を青年と称したのは、彼の瞳がとある人物の輝きと非常に良く似ていた所為だった。相手がこちらを見ているので、否応なく視線が交わる。なんの特徴も見出せない、人のよさそうな顔に張りついた、浮いた瞳。ほんの数刻前、鏡越しに見てきたものとそっくりだ。少年と名づけるには不相応な、世慣れした冷めた視線に流珠は息を呑む。歳若い相手ならば自分のことも特に気にかけないだろうと思ったが、どうやら尋ねる相手を間違えたらしい。 ―――――― 彼は、危険だ。
「あ、あの…」
「ああ、すみません。府庫でしたら、ひとつ通路を戻って左に曲がり道なりに進めばすぐにわかると思いますよ」
「あ、ありがとうございますっ」
てっきり自身の存在を追及されるかと構えていた所為か、意外にもあっさりと返答を貰えたことに逆に驚いてしまう。にこりと微笑む青年の表情は、真面目そうでとても落ち着いている。なんの裏も見えない、親切心ばかりが溢れた面持ちに、流珠は余計に気味が悪いと感じた。なにせ、自分がこんな表情を浮かべるときには間違いなく何かを企んでいるからだ。
彼が何を考えているのか、非常に気になるところではあったがそれ以上にこの場をとっとと離れたいという感情の方が勝り、流珠は目の前の青年に頭を下げると踵を返し駆け足でその場を立ち去った。背を向けた流珠に青年は「気を付けて」と声音柔らかに告げる。顔だけで振り返り、なおもこちらを窺う彼を流珠は一瞬横目で盗み見る。資料を抱えた右腕からのぞく銀色の何かが太陽の光を反射して、彼には似合わずキラキラと輝いていた。
何かを企んでいそうな彼に教えてもらった道をしばらく進むと、目的地と思われる建物の屋根が視界に飛び込んできた。てっきり嘘でも教えられたのではないかと密かに疑っていただけに、流珠は無事に府庫を発見できたことに違和感を覚えずにはいられなかった。もしや自分が訝しんでいただけで、実際にはただの親切な青年だったのだろうか。そう思ったのも束の間、流珠は思いきり首を横に振る。あんな瞳をした人間が、損得打算なしに行動するわけがない。それは、なによりも近しい自分がよく知っているはずだ。一定の速度で歩みを進めながら、彼にもう一度逢うことがあったときには、絶対に隙を見せないようにしようと流珠は心に誓う。できることなら、二度と逢いたい相手ではないのは言うまでもない。
(名前だけでも…聞いておくんだった)
名前がわかれば、邂逅を避ける手段も僅かだが増える。ついでに所属している部署や役職がわかれば尚良い。すでに別れてしまった今更考えることではないが、時間が経つにつれて逃げるように立ち去ってしまったことが悔やまれる。おそらく、相手も似たようなことを考えているのだろう。彼は、間違いなく自分と同じことを考えていた。言葉では言い表せない、奇妙な既知感。良く知っているからこそ、相手が考えていること、願っていること、取るかもしれない手段が具体的に想像できて恐ろしかった。
おそらく裏口と思われる府庫の扉にいつの間にか辿り付いていた流珠は、取っ手を掴む前に頭を大きく振って思い切り息を吸い込んだ。いけない、いけない。どんなに彼のことが気になっても、今はそれを考えている時ではない。自分は彼を知らない。そして「」も彼を知らない。それはすなわち、彼が「」の知っている時点までの物語に関わらない人間だということだ。関係のない人間について思考を割けるほど、流珠の頭は賢くはない。ただでさえ予期しなかった賃仕事が舞いこんだお蔭で当初の計画から道が大分逸れてしまっているというのに、これ以上不確定要素を加えるなんて不可能だ。
パシっと乾いた音を鳴らし、流珠は自分の両頬を叩いた。
これから待っているのは、現国王に嫁いだ唯一の姉との再会であって、彼との対決ではない。もちろん待っているのが再会と言う名の説教となることは重々承知しているため、心のずしんと居座る嫌な気持ちが拭われるわけではないが、それでも自分と対峙するよりは幾らかマシというものである。
「…気張るぞ、"紅流珠"」
本日二度目の意気込みを自身に施し、流珠は首に提げた腕環を一度かたく握った。服の内側で揺れる母の形見は、太陽の光を避けた場所で鈍く、けれど力強く輝いていた。