盆にかえった覆水 5



バタンと音をたてて閉じられた扉を暫く見つめた後、宋太傅は何の前触れもなく大きな笑い声をあげた。おそらく足音が遠ざかるのを待っていたのだろうが、これだけでかい声で笑ってはいくら待ったところで無意味だろうと、隣で耳を押さえる茶太保が思わず考えたほどにでかい声だった。更に言えば、この笑い声を兵舎で耳にした羽林軍所属の軍人たちが「今日の宋太傅は機嫌が良い。絶対に近づいてはならない」と標語を掲げるほどに、歓喜に満ち満ちた声だった。

「…笑いすぎじゃ、宋。耳が痛いぞ」
「久々に面白い小僧に逢ったんだぞ。これを笑わずに何を笑うっつーんだ」
「にしても大きさを考えんか、大きさを…」

ぽりぽり耳の穴を指でさすりながら霄太師が言う。だが、文句を言いながらも霄太師には宋太傅が馬鹿笑いする理由がわからないわけではなかった。つい先ほどのやり取りを思い返せば、自然と頬も緩むというものだ。人間にも国にも好んで関わる霄太師ではないが、彼の者にはどちらとも異なる面白い"におい"を感じた。紅邵可のもうひとりの娘である、現貴妃ともまったく毛色の違う存在。あえて喩えるならば、人とも仲間とも馴れ合うことを嫌う狼のようだ。本来ならば生きるために群れる存在でありながら、死んでもひとりを貫こうとする様がよく似ている。無論、捻くれ曲がった性格に関しては野生の獣とは似ても似つかないが。

「それより、霄。あやつは本当に十五なのか?」
「紅邵可がどこぞで不倫でもしてなけりゃ、間違いないじゃろうな」
「…とても見えんな。ありゃ、三十路越えでも通るぞ」
「何を言うか、宋。流珠はまだ成長期も過ぎていない子どもだぞ」
「あーそーいや、小僧にしちゃちっこかったな。あれじゃ、剣に振り回される」

その喩えはどうだと思わないでもない茶太保ではあったが、実際問題十五の少年にしては流珠が華奢なことは事実。およそ一年半振りに再会した姿を再度思い浮かべ、やはりあまり成長していなかった体躯にさすがの茶太保も心配になってしまった。別に食生活に難があるわけでも、運動が嫌いなもやしっ子なわけでもなかったはずだ。剣は使っていなかったが、とある州牧に棍の手ほどきを受けていたし、州尹の護衛が勤まるほどの腕は持っていた。細い腕にもしっかり筋肉はついていたはずだし、某州牧とは比べられないが人並みの食事は取っていた。

(あの体つきは、遺伝なのか…?)

それとも人に比べ成長が遅いのか。別段紅一族の人間が小柄と言うわけでも、紅邵可が小さいわけでもないが、そうした可能性を考えてしまうくらい成長期の少年にしては細い。もちろん個人個人に差があることは理解しているが、背丈が極端に低いというわけでもないのに華奢さばかりが目につくのは、おそらく個々の部品がか細い所為なのだろう。
本人はあまり気にしていないのだが、我が孫のように可愛いと思っている少年の今後を考えるにあたって、茶太保は密かに栄養価の高い食品でも送り届けようかと思案した。二日後、しっかり実行に至るのはまた別の話である。

長い顎鬚を撫ぜながら熟考する茶太保と、実際にどのくらい剣に振り回されるかについて解説を始めた宋太傅を一瞥すると、唯一「紅流珠」を知っている霄太師はふふんと嫌味ったらしく二人の同僚に笑いかける。また妙な事を考えているのかと、訝しげに二人が視線を寄越すと、流珠に狸、狸と(心の内で)連呼されていた老臣はまさに狸に相応しい黒い笑みを口の端に浮かべた。

「なんじゃ、おぬしら。人を見る目がないのう」
「なんじゃと?」
「嫁もいねぇ友人も少ねぇ、お前に言われたかねーぞ、霄」
「嫁は関係ないわい!
 ふんっ!あの者を見て体格云々心配しとるおぬしらは目が悪いといっとるんじゃ」

吐き棄てるように告げられた言葉に、二人の老臣は顔を見合わせる。
互いに長い時間を朝廷と言う奥が深く暗い部分ばかりの場所で過ごしてきた人間である。それなりに人を見る目はあると自負しているし、言葉の端々から言いたいことを理解する能力には長けている。
そんな二人の頭に、霄太師の言葉を聞いて「まさか」とひとつの可能性が同時に浮かぶ。辻褄が合わないことはない。過ごした時間がそれなりにある茶太保からすれば、手放しに納得できるものではないが、否定できる要素もない。なにせ、彼の者の裸をみた経験はないのだから。

暫し無言で視線を交わしていた二人は、小さく頷き合うと単刀直入に尋ねた。

「もしかしなくとも、"紅流珠"は ――――――― 」

にやり。
先ほど流珠に向けたものと同じ笑みで、霄太師はほくそ笑んだ。





「あら、絳攸様。お早うございます」

これまでの癖で、午後の講義よりも随分早い時間に府庫を訪れていた秀麗は机案に広げていた本を閉じ、父と共に現れた李絳攸を仰いだ。
別になんの含みも交えたつもりはなかったのだが、にこにこ笑って「相変わらず早いね」と告げる父と違い、何故か絳攸はぎこちなく体を強張らせる。どうしたのだろうと首を傾げた秀麗だったが、すぐに立ち上がり机案の上の本を脇に抱えた。

「今、お茶をお淹れしますね」
「あ、ああ。悪いな」
「…?」

どうにも歯切れが悪いと言うか、余所余所しい師の態度に再び秀麗は首を捻る。いったい自分は何か絳攸の気に障ることをしただろうか。確か今日はまだ逢うのが初めてだったはずだが…などと様々考えていると、いつの間にか目の前に立っていた父が秀麗の手から本をするりと抜き取り、言った。

「すまないのだけど、お茶をひとつ余分に用意して貰えるかな」
「え?父様と絳攸様と私と…あと、もうひとつってこと?」
「そう。冷めるまでには来れるはずだからね」
「父様にお客様なの?そうしたら、どこか別のお室に用意した方がいいんじゃ」
「うーん。たぶん、最初はここで大丈夫だと思うよ」

茶を淹れてくれ、という目的に関してははっきりしているのだが、如何せん要領の掴めない父の言葉に戸惑いつつも、結局秀麗は言われるがままに四人分のお茶を用意して二人の待つ窓際の卓子に戻った。茶受けには昨夜作った月餅が乗っている。丁寧に丁寧に器に茶を注ぎ、小皿に月餅を取り分け父に、そして絳攸へと差し出す。ほっこり湯気を浮かべる温かいお茶に、ようやく絳攸の緊張に似た感情も解けたらしく、ふっと小さく吐かれた息に秀麗は密かにほっとした。
最後に自分の分の茶を用意して、空いている席に並べる。脇に避けた盆には、未だ姿を見せないひとり分の茶器と月餅が残っていた。これも、用意してしまうべきなのだろうか。それとももう暫く到着まで時間がかかりそうなら、もう一度用意しなおした方が良いのではないだろうか。人をもてなす側として、様々な考えが頭の中を行き交う。傍からすれば些細なことでも、お客様には最大限のおもてなしを、という母の教えをモットーとしている秀麗には非常に重要なことだった。

「ねえ、父様。お客様はいつ頃いらっしゃる予定なの?」
「もうすぐ来るよ。それに、お客様といっても私のではないんだよ」
「父様のお客様じゃ、ないの?」

繰り返し問えば、父は月餅を頬張りながらはっきりと頷く。もしやと思い秀麗は父の向かいに座っている絳攸に視線を動かすと、和やかに茶を飲んでいた絳攸は慌ててふるふると首を横に振った。

「…じゃあ、私のお客様…?」
「そう畏まらなくても大丈夫だよ。お客様、なんて言ったら、きっと彼も怒ってしまうと思うから」
「ちょっと待ってよ、父様!全然わからないわ。いったい誰が来るっていうの」

今現在の秀麗の立場は、期間付きとはいえ貴妃という高貴なものだ。今の秀麗の知り合いが簡単に逢えるような立場でもなければ、おもてなしすることを怒るような相手にも心当たりがさっぱりない。
もしかして、朝議を終えた主上あたりが来るのだろうかとも思った秀麗だったが、それならば父はこんな回りくどい言い方をするはずがない。何がなんだかさっぱりわからず秀麗が立ちすくんでいると、何かに気付いたように絳攸がはっと茶器から顔をあげた。

「邵可様…まさか、客というのは」
「ええ、そうなんですよ」

楽しげに微笑む父は、口元に人差し指をあてがって言った。もう暫く黙っていてほしい、との意であることは秀麗にも理解できた。父が知っているばかりでなく、絳攸まで知っているらしい秀麗のお客様。

(って、いったい誰なのよ〜〜〜!!)

訳がわからず、さしもの秀麗も頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。この場に絳攸がいなければ、思いきり髪形が崩れることも気にせずそうしていたことだろう。やはり自分は貴妃なんて人間ではないな、と改めて認識する瞬間だった。

「そんなに困らなくても大丈夫だよ、秀麗。逢えば、きっとすぐにわか」

わかるから。
そう続いた父の言葉に重なるように、裏の扉を叩く音が二度鳴った。
件のお客様かしら、と扉の方へ秀麗が足を向けるよりも先に、立ち上がった邵可が滑るように書架の間に消える。出鼻を挫かれた秀麗は、追いかける機も逃し結局その場に立ったまま来訪者がやってくるのを待つことにした。
「こっちだよ」と手招きしている父の声が聞こえた。「へえ」と感動したような声もした。女性にしては低い、男性にしてはやや高い、中性的な声だった。声変わりをまだ迎えていない少年、と言うのがぴったりだ。

「ほら、秀麗。彼がお客様だよ」

書架の向こう側から姿を見せた父が言った。ついと動いた父の視線にあわせ、秀麗の視線もまだ見えぬ来訪者を追うように、彼の人がいるであろうあたりに移動する。
ただ動かしただけの視線が、随分と重く、秀麗には感じた。
それどころか、いったい何が起こってしまったのか、体が上手く動かなかった。根が生えてしまったように足は床に突き刺さり、いつのまにか服の裾を握っていた手のひらはきつくなるばかりでさっぱり緩まない。ごくり、形にならないなにかを飲み込む音がはっきり聞こえる。同時に、自身の心臓の音がやけに大きく響いていた。
なんだろう、これは。お客様に、なにがあるというのだろう。鈍い思考で、秀麗は困惑する。
しかし、様々な異常が体に起こっているにも関わらず、秀麗は来訪者に逢いたくない、と思うことは決してなかった。むしろ、父が手招きしてから彼の人が現れるまでのほんの僅かな時間が、無性に腹立たしくて仕方がなかった。

はやく はやく はやく

秀麗の声にならない呼び声に応じるように、書架の影から黒い髪が始めにのぞく。とても、見慣れた色だ。それが、父の髪の色だと秀麗が気付くのに、時間は大してかからなかった。


「…………ッ!」


そして、彼の姿が完全に見えたとき、秀麗はいつのまにか自分が胸に提げた腕環を握っていることを知った。
つよく、きつく。指先に巡る血が止まることも厭わないほどにかたく。
曖昧に、けれど柔らかく微笑む彼の表情は、秀麗がずっと見たくて、けれどその日がくることをずっと恐れていた、記憶のままのものだった。