盆にかえった覆水 4
「それで、いったいぼくにどういったご用件でしょうか」
お客様に不快な思いをさせてはいけませんよ ―――――― 姉同様、母から様々な礼儀作法を学んできた流珠だったが、さすがに狸相手に実践しようという気はさらさら起こらなかった。そもそも相手は客ではない。暢気に茶(話の展開的に間違いなく梅茶だろう)を飲んでいる相手からすれば、呼ばれてわざわざ足を運んでいる自分の方が客である。待たされることが苦となる性格ではないが、なんの事前情報もなしに呼ばれたことでどうにも落ち着かなく感じていた流珠は苛立ちを隠さぬまま再び霄太師を睨む。なにが琴線に触れたのかは知らないが、彼の隣で宋太傅が楽しそうに感歎の声をあげた。
「まあ、そう急くでない」
「そう言われましても、自分如きのために朝廷三師と謳われる方々の時間を遣って頂くなど、心休まるものではありません」
「言うのう。おぬし、産まれは口からか」
「でしたら霄太師は舌先からお産まれになったのでしょう。自分など足元にも及ばぬほど、素晴らしい二枚の舌をお持ちのようですから」
そもそもが捻くれた性格と自称している流珠だが、勝てないと解かっていても対抗したくなる相手は殆どいない。紅家の家人に口で勝てるわけがないと判断してからは、出来る限り口答えをしないよう心がけて過ごしてきたし、流珠の武道の師とも呼べる二人には絶対に手を出さないと心に決めている。勝てる勝負にも興味はないが、勝てない勝負にはもっと興味のない流珠である。今回も、どんなに頑張ったところで目の前の狸に口でも手でも権力でも勝てないことは明白だった。が、どうにかしてこの男の鼻を明かしてやりたい、と思わせる何かが狸にはあった。「」として二十一年間生きた間もこんな風に思ったことは一度としてない。流珠の十五年においてもそれは変わらなかった。なのに、どうしてこの狸相手には、こうも感情を押し殺せないのか。流珠は不思議で仕方なかった。まるで、親の敵でも目の前にしているようだ。
「面白いことを言うのう。まあ、そのくらい根性が擦れていた方が役に立つじゃろう」
「それではご期待に添えられないかもしれません。自分は世の中に疎いたった十五の餓鬼ですから」
「そなた以上の適任はいないと思っておるのだが。断っても構わんが、おぬしの大事な姉が心を痛めるかもしれんぞ」
「…この根性ひん曲がり狸め」
最後の言葉は誰にも聞こえぬよう小さく呟いたつもりだったのだが、どうやらはっきり聞こえたらしく宋太傅の爆笑を誘ってしまった。幸運にも茶太保の耳にまでは届いていなかったらしい。いきなり笑い出した同僚を彼は訝しげに眺め、少し椅子を離そうとしていた。さすが朝廷三師が一人。狸と並べるのは失礼だが、それなりにいい性格をしていると流珠は密かに感心した。
「…用件を簡潔に仰ってください」
茶太保と再会が叶ったことは嬉しいが、人外狸とこれ以上腹の探りあい(むしろ一方的に腹を切り開かれている)を続けて精神力を無駄に消耗するなど勘弁してもらいたい。先に折れたことがどことなく負けたようで無性に腹立たしくも思えたが、流珠は溜息混じりに一歩引いた。
これが二人きりでこのあとの「用事」が待っていなければ幾らでも嫌味の応酬に応じているところだが、流珠にはこれから本日の山場とも言える一大イベントが待ち構えているのである。それも、かなりの精神力を必要とするイベントだ。途中で「もう勘弁してください」と言ったところで聞く耳持たれないことは容易に想像できる。実際に想像し、まだ始まってもいないのに流珠は逃げ出したい気分になった。狸の皮肉など比べ物にならないほど、攻撃力が高すぎる。
「なんじゃ、つまらんの。おぬし、若さのわりに引き際が早すぎるぞ」
「見極められないよりはマシです。
それとも霄太師のご用件は、ぼくをここに留めておくことだとでも言うのですか」
「そんなわけがあるか。おぬしに頼みたいのは、おぬしの身内のことじゃ」
「…………なんとなく、わかりました」
「飲み込みが早くて助かるの。期日は明日からおぬしの姉が朝廷を辞するまで。報酬としてこれだけ支払おう」
そう言って立てられた指は二本。流珠の考えている額と狸の提示している額が等しければ、姉の賃仕事には及ばないまでもかなり破格の給料である。別段金に執着があるわけではないが、我家の現状をそれなりに把握している流珠にとって、それだけの収入は咽から手が出るほどに美味しかった。しかし、簡単に首を縦に振るにはあまりに弊害も多い。しばし考えた後、流珠は言った。
「ぼくの役職はどうなりますか」
「まだおぬしは国試に通っておらんからの。臨時に派遣された侍僮ということになるじゃろう」
「定時に帰宅しても」
「構わんよ。もちろんおぬしの父親の元で寝泊りしても目を瞑ろう」
「…破格ですね。そこまで酷いんですか」
「十日前からまったくじゃ。ついでに言えば、昨日今日はさらに不気味さが加わっとると報告書が届いておる。そういえば、おぬしは昨日貴陽に戻ってきたんじゃったの」
そういえば、父が逢いたがっていたと言っていたな。昨晩の父との会話を思い出し、それに駄目出しをした張本人への突っ込みが山のように浮かんだ。あの時は、大変なのはとある部署の官吏だけだと思っていたが、巡り巡った災難は何故か自分にも降りかかってくるようだ。どんな因果だ、と流珠は思わずにはいられなかった。自業自得、とは少し違う気がする。むしろ、業を作ったのは自分を除いた家族なはずだ。
無論、そんなことを抗議したところで無意味なことも嫌になるくらい解かっていた流珠は、にやにやと口の端に笑みを浮かべ饅頭(おそらく梅饅頭)に手を伸ばす狸を真似て指を一本立てた。
「報酬はこれだけで結構です」
「百両じゃと?」
「はい。その代わり、ひとつぼくの欲しいものを頂けないでしょうか」
ぴくり、先ほどまで微動だにしなかった狸の眉が動く。ゆっくりと饅頭から向けられた視線に、流珠はやっと彼が「紅流珠」を見る気になったことに気付いた。それまで単に「紅邵可の子」に向けられていただけの興味が、「紅流珠」への意識にはっきりと変わった瞬間だった。流珠は自分の咽の奥が、からからに渇くのを感じた。恐怖ではない。歓喜に似た情動が流珠の体全体にじんわりと染み込んでいった。
「欲しいもの、とな。言うてみろ」
促す口調はとても老人とは思えないな、と流珠は思う。別に狸を刺激するために提案したわけでもないのに、嫌味の応酬よりも精神力を遣う道をいつの間にか選択してしまったようだ。背中にかかる圧力に屈さぬよう息を呑み、流珠は下っ腹に力を籠めた。
「今はまだ言いません。姉が朝廷を辞するまでに頂きに参ります」
「物を聞かんことには頷けんな」
「ご安心ください。霄太師は、間違いなく笑って頷いて下さいますよ。貴方にとっては必要でも不要でもない、どうでもいいもののはずですから」
ぴりぴりと肌を突き刺す狸の視線に、寒いわけでもないのに奥歯が小さく噛み合わさる。カチリと幾度も鳴る音は流珠の頭に直接響き、耳を塞いでも消えてくれそうにない。蛇の前の蛙にでもなった気分だったが、流珠は決して狸から目を逸らすことだけは是としなかった。逸らせば、おそらく一笑と共に切り捨てられるだろう。自身の矜持のためではない。得たいもののため、認めたくない未来のために与えられた唯一の機会を逃せるほど、流珠は殊勝な人間ではなかった。
引き攣った頬でそれでも必死に取り繕い、流珠は口の端に笑みを浮かべた。
「霄太師ならば、受けて下さいますよね。そのためにぼくを此処に呼んだのでしょう」
はったりも、完璧に吐き通せば真実になる。とある州牧の教えだ。
通じたのかそうでないのか読み取ることは出来なかったが、にやりと笑った狸は実に満足そうだった。ああ、これはもしかしたら結局嵌められただけなのか。振り上げることすら出来ない拳を強く強く握ったまま、流珠は折角一晩寝て回復させた体力と精神力が急降下してゆくのを、口惜しくも有り有りと感じた。