盆にかえった覆水 3



父に案内された室の戸を叩き、許可を得てから入室した流珠は中で待ち構えていた人物を確認して思わず息を呑んだ。


「え、鴛洵様?!」


室に置かれた卓子を囲むように座っていた二人の老臣が一斉に名を呼ばれたもう一人へと視線を移す。集まった視線など気にも止めず、茶鴛洵は椅子から立ち上がり流珠の方へと数歩足を進めた。珍しくも、驚いているようだ。

「流珠…なのか?」
「はい、鴛洵様。ご無沙汰しております」

これ以上彼に足を運ばせるわけにはいかないと、流珠は無礼にならない程度の駆け足で茶鴛洵の元へ近づき膝をついた。礼をとれば、こちらの気を察した茶鴛洵は先ほどまで座っていた椅子に再び腰を落ち着ける。自分より、地位も身分も高い上、尊敬にも値する人物だ。自分のために労力を遣わせるなど堪えがたかった所為か、彼の行動に流珠は心底ほっとした。


流珠が茶鴛洵に初めて逢ったのは、もう二年以上も前のことだ。
ひょんなことから茶州州城で働くこととなった流珠は、彼が後見についている茶州州牧とも親しかったために偶々顔を合わせる機会を得た。
実のところ、彼と直接相対するまで、流珠は茶鴛洵という人物にさしたる興味を抱いてはいなかった。茶州州牧や州尹と関わっていくうちに自然と茶家の人間とも逢うようになったし、彼の孫娘とも顔をあわせた。ついでに逢いたくもなかったが、彼の弟の孫共とも面識ができてしまった。けれど、それでも流珠にとって、茶鴛洵という人間は「どうでもいい相手」でしかなかった。それは、彼がいずれ死ぬことを「」が知っていたからだ。
茶鴛洵は必ず死ぬ。母の運命も王位争いも変わらなかったなのに、彼の死だけ変わるなどありえるわけがない。否、あってはならないと流珠は思っていた。だから、茶鴛洵がどれだけ重要な人物で、いつか姉が赴任するであろう土地に一石を投じる張本人であろうとも、興味の欠片も浮かばなかった。
所詮、何もかもが終わるとき、その場にいないずるい人。
」の記憶をもつ紅流珠の、茶鴛洵に対する印象などその程度のものだ。正負どちらにも転びはしない。本当に、どうでもいい人間でしかなかった。

彼に、直接逢うまでは。


「州城を出たと報告は受けていたが…貴陽に戻っていたとは」
「昨日、戻ったばかりです。お伝えせず、申し訳ありません」
「いや…元気そうでなによりだ。道中、困ったことはなかったか」
「関所の方々はみな親切にしてくださいました。鴛洵様も、お変わりなくなによりです」

」によって創り上げられた流珠の持っていた茶鴛洵像を、根底から全てひっくり返したのは彼自身だった。だから流珠は茶鴛洵を心から敬愛する。彼にならば、膝を折ることも厭わないと思った。


茶鴛洵への挨拶を済ますと、流珠はすぐさま立ち上がりそれまでの成り行きを眺めていた二人の老臣へと目をやった。

てっきり呼び出し相手ひとりだけしかいないと思っていたのに、とんだ誤算だ。初めて見るふたりの顔を即座に確かめ、「」の記憶と照合させる。もう、十五年以上前のものだが、忘れぬようにと小さい頃から何度も料紙に書き連ねてきた。一言一句まではいかなくても、物語の流れを忘れぬよう、間違えぬように。なけなしの記憶を搾り出し、これでもかと言うほどに脳を使った。おそらく、「」が体験してきた大学入試や就職試験などの比ではなかっただろう。一度、夜中に机案に向かっているところを目撃したらしい家人に、「想い人への恋文でも考えていたのですか」と誤解されたくらいだ。さすがにあの時は返答に困った。胸に秘めた愛の文句を単語にしようと四苦八苦していたように見えたと言われてしまっては、否定するのも難しい。なにせ、否定してしまったら「では、なにをしていたのか」と問われ答える言葉に詰まってしまう。ゆえに当時の流珠は是と答えることしかできなかった。「流珠」は初恋も未だなのに、勝手に想い人ができてしまった瞬間だった。

幾ら記憶力が人並みの流珠と言えど、あれほど必死に繰り返していれば主要な登場人物の名前くらい容易に思い出すことができる。
彼らに体を向けると、背筋を伸ばしまっすぐに二人の老臣を見据えた。

「宋太傅、霄太師にはお初に御目にかかります。自分は紅邵可の長子、紅流珠と申します」

老臣のうち、宋太傅と思しき人物が首を傾げた。どうやら、態度の違いではなく、流珠の言葉に疑問を感じたようだ。手を顎にあて、不思議そうに単語を反芻する。

「長子?」
「はい。ひとつ上に姉がおりますが、男の子どもは自分以外におりませんので」
「…紅邵可に男の子どもがいたとは、初耳だ」
「はあ。七年ほど放浪の旅に出ていましたので、その所為かもしれません。そもそも父は、すでに紅家を出た身ですから、それほど話題に上ることもないでしょうし」

流珠の言葉に宋太傅は多少納得したのか、ふむと喉を鳴らして小さく頷いた。
話題に上らないのも当然だ。ただでさえ隠しごとの多い流珠を、出来る限り父も母も"変な方"の叔父も隠そうと躍起になっていた。隠したいことほど露見し易いと世間一般では言うが、幸いと言うべきか実際に行っていたのは世間一般とは遠く離れた人物ばかり。下町で「紅秀麗」の弟が話題に上ったところで、上層部の人間に噂される機会もほとんどなく、旅先で「紅流珠」と名乗ったところでそれが紅家直系の人間だと気付く相手も皆無に等しい(極稀に名だけで言い当てる相手もいたが)少しばかり顔を崩しているのを見る限り、茶鴛洵も「紅流珠」が紅邵可の子だとは調べられていなかったようだ。
さすがに宋太傅までもが「初耳」と言ったことには驚いたが、一方でそこまでの情報規制を可能とする紅家の力に改めて驚かずにはいられなかった。

しかし、その上で流珠は疑問に思った。
ちらり、視線だけで自分を呼び出した相手を見遣る。飄々と笑った顔は、まさに古狸そのものだ。「」が物語を読んだときには、この腹黒さをかなり気にいっていたが、実際に相対すると嫌気しか浮かんでこない。流珠は内心で大きく息を吐き、自分の素性を初めから知っていた読めない狸に顔を向けた。

「霄太師は、ご存知のようでしたが」
「まぁのう」

あからさまな皮肉すら、この狸は聞き流すか。これではますます嫌いになりそうだ、と流珠は思う。やはり、文章で読むことと実際に体験することには天と地ほどの違いがある。今となっては、「」が一瞬でも霄太師を一番好きなキャラクターと考えていた記憶が憎らしい。煮ても焼いても食えない狸など、粗大ゴミにしかならないではないか。

おそらくこちらの印象など筒抜けなのだろうと悟った流珠は、とりあえず笑顔のまま霄太師を睨むことに決めた。大事な姉を勝手に王の嫁とされた弟のささやかな怒りとでも思ってくれれば恩の字、それ以外の思惑まではさすがの狸でも読めないはずだ。人間の思考回路を読みとる力でも持っていない限りは。
心の内で思いきり毒付く流珠の視線に、霄太師はふふんと楽しそうに鼻で笑った。綻んだ表情は、まさしく国の重鎮に相応しい。表も裏も、何もかも知り尽くした傲慢な、けれど確かな自信と確信に基づいた目笑。流珠は、目の前にいる男を殴りたくて仕方がなくなった。
霄太師は、口許を覆う長い髭を撫ぜながら言った。


「よう参ったの、流珠殿。立ち話もなんじゃ、座りなされ」


三人の重鎮の眼が流珠に集まる。
しかし流珠は首を振り、結構ですと端的に霄太師の申し出を切り捨てた。
そんな彼の行動を見て、霄太師はまたも楽しそうにほくそ笑んだ。



  
 ※ここでは「長子」を「最初の男の子」という意味で使ってます。