盆にかえった覆水 2
その日、出仕したばかりの李絳攸は重い足取りで吏部を目指していた。
他人に気づかれないように密かに配置した目印の位置を確認しつつ、一歩ずつ確実に吏部に近づくたび絳攸は気分が荒んでいくのをありありと感じた。朝っぱらからついてない。いっそのこと今日ばかりは道に迷ってもいいな、などと考えもしたが、そんな時に限って絳攸の最大の欠点(本人は断固として認めたがらないが)は発揮されないようだ。目的地である、吏部尚書室に辿り着いた途端、胸いっぱいの溜息が出た。
出仕した直後の絳攸がとある官吏に捕まったのは、ここ二月ほどの習慣通り府庫を目指していた時だった。
廊下の向こう側から絳攸を発見し全速力で駆けてきた官吏を見たとき、絳攸は「しまった」と思わずにはいられなかった。逃すものかと力いっぱい袖を掴まれ、号泣されて(しかも相手は絳攸より二十は年上の官吏だった)頼まれれば幾ら絳攸と言えど頭ごなしに突っ撥ねられない。しかも、話の内容を聞いたあとでは逃げることすら不可能だった。
「…………はあ」
尚書室の戸に手をかけたまま、再び絳攸は息を吐いた。
瞼を閉じれば、あの官吏のぐしゃぐしゃの顔と泣き声が今も鮮明に思い出せる。
『なんですか、あれは?!新手の嫌がらせですか?!油断させて後ろから刺されるんですか、私?!怖いんです怖いんですとにかく怖いんですよ!!あんたの上司で養親でしょ!頼むからなんとかしてくださいーーー!!!』
正直、泣きたくなったのは絳攸の方だったことは間違いない。なにせ、自分の上司にして養親の所為で絳攸が受けた苦情・要望・後始末は数知れない。吏部尚書という重鎮でありながら、まともに仕事をすることなど滅多にないというだけでも困っているのに、泣きついてきたあの官吏の様子を見る限り今回はそんなものではないらしい。
ちなみに、現在進行形で吏部の仕事は絶賛累積中で、吏部侍郎職に就いている絳攸が主上に付いているため処理速度が通常より遅く、更に積み重なるという悪循環を生んでいる。尚書室を訪れる前に吏部室の覗いた絳攸は、室に溢れかえった書簡の所為で中の様子を伺うことができなかった。上司が仕事をまったくしなくなった(それまでは雀の泪程度に働いてくれていたらしい)のは、およそ十日ほど前からだという。それを聞いたとき、絳攸は悟った。現国王の唯一の貴妃が貴妃である限り、朝廷は吏部の(正確には吏部尚書の)未処理仕事で潰れかねない、と。
「…………っ」
随分と長い間立ち尽くしていた絳攸は、ついに覚悟を決め室の戸を二度叩いた。
「李絳攸です。入りますよ、黎深様」
返事はない。仕方なく、絳攸はゆっくりと戸を開けた。
「…ふっふっふっふっふっふっ…」
ばたん。
ただの一言も発することなく、絳攸は静かに戸を閉めた。否、それ以外に出来ることがなかった。
(駄目だ。あれは俺にどうこうできる範囲を当に超えている)
怖い、確かに怖い。あの官吏が泣いて伝えんと思ったことが絳攸にもやっと理解できた。普段は氷の長官とも恐れられている黎深だが、今日の態度は更に恐ろしい。それなりに見慣れている絳攸でも、恐ろしさのあまりもう一度確認しようなどという気には更々なれなかった。
仕方なく、絳攸は近くの官吏に「吏部尚書は現在重要な要件の採決を行っているため、自分が許すまで尚書室の一切の出入りを禁じる」旨を伝え、吏部尚書室を封印することに決めた。
ふっふっふっと恐怖としか喩えようのない表情で笑いながら小さな人形にちくちく針を刺す、という重要採決が何故始まり何時ごろ終わるのかについては、さすがの絳攸にも答えることができなかった。
「おや、絳攸殿ではありませんか」
「っ、邵可様」
吏部から府庫へ向かう途中の回廊で呼び止められた絳攸は、振り返った先にいた姿を認めると半ば駆け足で彼に近づいた。
「府庫以外でお逢いできるなんて奇遇ですね」
「そ、そうですね」
実際、絳攸と邵可が逢う場所のほとんどは府庫であった。それは出仕しても邵可が府庫から殆ど出てこない所為でもあるし、絳攸の立場上なかなか邵可を私的に訪問することが出来ない所為でもある。立場と言っても家の確執があるわけでも、仲が悪いわけでもない。単に、邵可の弟にして絳攸の養親、現在吏部尚書室で人形に針をちくちく刺している黎深の妨害があるだけである。
おそらく先ほどの黎深の奇行も、邵可もしくは邵可の娘が原因の一端を担っているのだろう。ともすれば、あれを改善できるのも今目の前にいるこの人物以外にありえない、と絳攸は確信した。
普段はできる限り邵可に迷惑をかけまいと養親に関する難題も限界ぎりぎりまで自身でなんとかする絳攸ではあったが、今回のことは限界に近すぎる。あれが続けば間違いなく朝廷は機能しなくなるし、なにより養親の風評に関わりかねない。ぐっときつく拳を握り、絳攸は邵可を見上げた。
「あ、あの」
「どうかしましたか、絳攸殿」
「実は…」
ざっとことの成り行きと現在の養親の状況を説明すると、何故か邵可の表情がみるみる笑顔に変わっていった。先ほどまでもにこにこ微笑んでいたが、今は更に嬉しそうだ。自分が笑っていることに気づいたらしい邵可は、絳攸に謝辞を告げるとそれでも心底嬉しそうな顔で言った。
「おそらくそれは、私でもどうにもできないと思いますよ」
「邵可様でも、ですか?」
「ええ。というか…私以上の適任がいる、という方が正しいかもしれません」
邵可以上の適任として、真っ先に絳攸の頭に浮かんだのは、今頃府庫で主上と自分を待っているであろう貴妃の姿だった。しかし、絳攸の記憶が正しければ黎深はまだ彼女に名乗っていないはずだ。ゆえに彼女が黎深を知るわけもないし、あの状況を打破する適任とは考えにくい。
「邵可様以外に、あの人を浮上させられる適任がいるとは、とても思えません」
「ああ、そういえば絳攸殿はまだ逢ったことがなかったのでしたね。秀麗と違って、もう七年近く貴陽にいませんでしたし…」
「?」
さっぱり分からないと首を傾げると、邵可は少しばかり誇らしげに絳攸が先ほど通ってきた通路の途中にある室を指差した。どこの部署が使っている、という場所ではない。ただ、近頃は度々ある重鎮たちが集まって真剣な顔で会議を行っていると噂されている室だ。
「実は、私の息子が昨日七年ぶりに帰ってきたんですよ。霄太師に呼ばれつい先ほど、連れてきたところなんです」
「邵可様の…息子…?」
邵可の息子にして、養親を浮上させるのに適任な人物。言われても、そんな男の姿が欠片も思い浮かばない。それに、邵可に息子がいたなどというのは初耳だった。姪がいる、という話は幾度も養親より惚気とともに聞いていたが、邵可の息子、即ち次期紅家宗主に最も近い男の存在など噂程度にも耳にした記憶がない。ありえないほどに不自然だ。
(…だが)
もしも、そんな男がいるのならば是非一度逢ってみたい、と絳攸は思った。ついでに現在の養親をどうにか処理してほしいと切に思う。
絳攸は振り返り、件の室の扉を見つめた。焦茶の扉は物言うことなく、彼の姿を隠したまま絳攸を見返していた。