盆にかえった覆水 1
目を覚ました流珠は、自分が着の身着のまま寝台の上で寝ていたことに驚き飛び起きた。
ちょっと待て。これは一種のドッキリか?隣で男(流珠の場合は女でも構わないだろう)でも寝ていたら、世間でよくある(こっちの世界では知らないが)「記憶にない情事のあと」というやつか?などと一気に考えを捲くし立てた流珠だったが、よくよく思い出してみればなんのことはなかった。昨日の夕餉後、邵可に自室の場所を聞いて室に戻った途端、旅の疲れが噴出したのか眠くて仕様がなくなり荷物の整理もほっぽって寝台に入ることを選んだの自分である。 さすがに着替えもせず、という昨夜の行動に呆れを感じなくもないが、一月の強行軍に体力もそろそろ限界だったことは事実。流珠は思いたって、寝台の上で腕をぐるぐると大きく回した。肩の張りも重さも綺麗に払拭されている。一晩ぐっすり眠ったことで、溜まった疲れもしっかり抜けているようだ。満足げに笑んで、流珠は思い切り伸びをした。
寝台から降りた流珠は改めて自分の室と称された空間をぐるりと見回した。
昨日、室に入った時にも「もしかして」と思ったのだが、こうしてもう一度確認してみるとその感覚も確信に変わる。どうやら、流珠が旅立った七年前まで使用していた室を、そのまま残してくれているようだ。
もちろん、当時流珠が着ていた服やサイズの小さな家具はすでにないけれど、棚に並ぶ農業に関する書物や、愛用していた筆、文鎮などもそのままだし、埃のひとつも被っていない。もしやと思って棚の一番下を漁ってみれば、流珠が小さい頃に隠した鞄と帽子の残骸がしっかり箱に詰められて残っていた。こちらも見事に掃除と虫干しが行き届いている。十年以上前の試作品だというのに、虫食いのひとつもないとは。姉の家事全般に関するスキルはかなり高いレベルに達しているようだ。あるいは静蘭のそれも。
いつ自分が帰ってきてもすぐに自室で寛ぐことが出来るように、と与えられた心遣いに浸ったのも束の間。流珠は卓子の上に放ったナップザックを開いて中から比較的綺麗な服を取り出し手早く着替える。それから室の蔀戸を開け放ち、暗かった室内に陽の光を入れた。太陽の位置はまだ低く、おそらく日の出から四半刻も過ぎてはいないだろうことを窺わせる。てっきり寝過ごしたかと思っていた流珠は空の色と太陽の位置に安堵し、朝餉の支度のために室を出ようとした。が、戸に手を伸ばす前に足を止め、棚の三段目に飾られていた鏡を掴む。自身の顔半分を映し出す鏡面を流珠はまじまじと見つめた。それから、顔のある一点を指でなぞり、さしたる痛みがないことを確認しほっと息を吐く。まだ切れた部分が完治するには至っていないが、目立つほどでもない。この程度なら、喋るに支障もなさそうだ。鏡を元あった場所へ静かに戻すと、今度こそ流珠は室を出た。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま。流珠も本当に菜が上手だね。昨日の夕餉も驚いたけど、今朝のお吸い物もすごく美味しくてびっくりしてしまったよ」
「普通だよ、これくらい。特に工夫もしてないし。旅してるときは自分で作らなきゃならなかったから、多少慣れてるくらいだよ」
たなごころを合わせ食卓に礼を告げると、てきぱきと流珠は朝餉に使った器を重ねはじめる。邵可は流珠が淹れた朝のお茶をしばきながらのほほんと言った。
「黎深が君の手菜を食べたい、なんて言いだすからどうしたのかと思ったけど。悠舜殿が羨ましくなるのもわかる気がするね」
ガチャリ。重ねていた茶碗がやや高い位置で手から滑った。
幸い器に亀裂は入らなかったが、危ない危ない。茶碗を割ったとなれば、賃仕事から戻った姉が気づかないわけがない。気付かれれば一巻の終わりだ。不可抗力なら言い訳も立つが、不注意となれば容赦なく雷が落される。
茶碗の無事を確認したのち、ようやく落ち着いてきた流珠は視線だけを動かして、恐る恐る父に尋ねる。
「…それ、黎深叔父上が仰ったの?」
「うん、そうだよ。よく、『昨日の茶州州城の夕餉の献立は青椒肉絲に甘藍の汁物、漬物に胡麻団子、夜食に麦餅まで出たそうですよ!』って教えてくれてね」
貴陽にいながら茶州の食卓がわかって楽しかったよ。
そう言って朗らかに笑う父を前に、流珠は自分の叔父の持つ権力と変人具合を再度理解した。
実のところ、茶州で再会した悠舜から叔父のひととなりを昔話感覚で聞いてはいた流珠だったが、さすがに夕餉の献立にまでその効力が及ぶとはこれっぽっちも思っていなかったのである。確かに暗殺の一環として毒でも盛られたら嫌だという理由から、夕餉に限らず口に入れるものは出来る限り自分で作り、悠舜の雑用係兼護衛の賃仕事を請け負っているのだからと、同様に悠舜の食事も用意してはいた(実際には笑顔の圧力で用意することを強要された、気がする)ついでに途中から毒殺とは縁遠い某州牧まで食事に加わってくるようになったりとまぁ色々あったし、実は茶州で生活を始める前にはまた別の相手に食事を作っていたりもした。
(もしかして…そっちもしっかり伝わってるのかな)
茶州のことがここまで伝わっているのだ。知られていないわけがないだろう。
内心舌を打たずにはいられなかった流珠ではあるが、別に知られると困る、というほどのことではない。単にたまたま知り合った歳の近い人物としばらく旅を共にしていた、というだけである。さすがにあの出逢いに関しては流珠自身も予想だにしなかったことだし、それは相手にとっても同じだろう。
だが、残念なことに自分と相手の場合、そうした言い訳が簡単に通じてくれそうになかったりもする。ふたりの叔父と父はわかってくれるとしても、他の親族類は勝手な想像を繰り返し最悪の結論を導き出すことだろう。
(…一応、確認しておくか)
にこにこ思惑のひとつも掴ませない表情の父を卓子に残して、流珠は器の山を持ち上げる。さして重さはないが、持ち上げた器は積み上げすぎたのか少しぐらぐらと揺れていた。
「流珠の支度が済んだら、出掛けようか」
「あ、うん。洗い物だけ済ませてくるよ」
「ゆっくりでいいよ。それに、お土産の準備もしないといけないだろう?」
ぐらぐらぐら。揺れていた器の山に邵可が手を伸ばす。さっと一枚皿の位置を動かすと、さっきまで不安定だった山が気を付けの姿勢でもとるようにピシッと止まった。流珠ではわからない何かが、邵可の目には見えていたようだ。
「…父さんへのお土産は、姉さんたちが帰ってきたあとで渡すよ。みんなで、一緒がいいんだ」
「うん、わかってるよ。秀麗も静蘭もきっと喜ぶと思うよ。秀麗はよく憶えていないかもしれないけどね」
「あの時と、変わってないことを祈るよ。
四半刻以内に支度するから、父さんもすぐに出かけられるようにしておいてよ。ぼく、遅刻してお説教なんてごめんだからね」
さあ、もうすぐ再会の時間だね。
それが"いくつ"の再会になるのかまでは、さすがに流珠にはわからなかったけれど、年甲斐もなく胸が高鳴り自然と頬が緩んでしまう。
器の山を持って厨房へ向かう足取りも、羽が生えたように軽かった。そういえば、こういうのスキップって言うんだっけ。思わず口ずさんだ歌は、懐かしい「」の故郷の曲だった。