旅する子どもの帰郷から 5



 こくん。


(………………。)

淹れたてのお茶で喉を潤した流珠は、無言で茶器を卓子に置いた。別に周囲の空気が重くて紡ぐ言葉が見つからないとか、何を話していいのかわからないわけではない。単に、胃と食道に拒否反応を起させている苦過ぎるほどに苦いお茶の所為でまともに声を出すことが出来なかったのであった。

(…父茶は健在…小説は正しけり、か)

むしろ、事実は小説より奇(鬼)なり。
言葉だけではそのものの本質は中々伝わらないものである。こうして実体験してこそ、喜びも苦しみも自分の中で確かなものになるのだと、流珠はひとつ心理を悟る。正直、悟りたくもなかったが。

「茶州から旅をしてきたんだから、疲れただろう。お茶のおかわりならいっぱいあるから、遠慮しなくていいんだよ」
「…ありがとう、父さん」

でも、その茶器とお茶を発見したのはぼくなんだけど。
心の中で呟いても、決して口には出さずに流珠は再びお茶に口をつける。苦い苦い。切れた口の端の痛みすら忘れるほどの味だ。しかし、そこは腐っても家族である。父への愛情と慣れ(むしろこちらが重要だ)のおかげで、それなりの耐性はついている。
ぐい、と勢いよく残りのお茶を仰ぎ、顔色を変えないように必死で表情筋を統制して「ごちそうさま」と礼を言った。卓子に戻した空の茶器に再びお茶を注がれそうになったが、そこは丁重に断っておく。さすがに帰って早々胃痛で寝込みたくはないと流珠は思った。

「それより父さん、どうしてぼくが帰ってるってわかったの?」

自分で淹れたお茶を平然と飲む邵可に、流珠は尋ねた。
卓子からも見える窓の外では、ようやく陽が空の天辺から下りだしたばかり。本来ならばまだ邵可も外朝で本の整理をしている最中であるはずだ。まさか公休日だったのかとも考えたが、それならば流珠が庭院に入る前に人の気配を察知して声をかけているはずである。なにせ紅家長子にして、あの母の夫であれた男である。並大抵の人間でないことは、「」の記憶に寄らずとも簡単にわかるというものだ。
流珠の問いに、邵可は短い相槌を打つ。ほんのわずかに下がった眉尻から、彼が何かを躊躇っているように流珠は思った。しかし、それも気のせいと思える程度で消え去り、邵可は変わらぬ微笑みを浮かべる。

「うん、実はね。朝廷で縁のある人が、君が今朝方貴陽入りしたと教えてくれたんだよ」
「茶州から来たっていうのも?」
「その人から聞いたんだよ。ずっと君のことを気にかけてくれていてね」

 ――――― "変な方"の叔父の仕業だ。

はっきりと相手の名を口にしない邵可を後目に、流珠は確信した。なるほど、先ほど返答を躊躇ったのは叔父の名を出すべきか出さざるべきか迷ったためだったのか、と妙なところで納得する。この調子だと、"変な方"の叔父(確か名前を黎深と言っただろうか)は原作通り今尚秀麗に名乗り出ることができていないらしい。かくいう自分もまだ名乗られていないな、とまだ自分が二つか三つのときに逢ったきりの青年の顔を他人事のように思い出す。

(…でれでれ顔しか思い出せない)

どちらかと言うと、顔というよりも琵琶の音の方が記憶に残っているような気がする。まずい。さすがにこれは失礼だ。仮にも「紅流珠」にとっては実の叔父である。小さい頃可愛がられた(ある意味トラウマになるほどに)憶えもなくはない。何より"変な方"の叔父は自分が"姪"であることを知っている数少ない知り合いだ。もう少し姪らしく振舞っても罰は当たらないだろう。
結局、数拍ほど悩んだ後、流珠は心中で嘆息しつつ言った。

「その人って、黎深叔父上のこと?」
「…ああ、流珠は憶えているんだね」
「うん。姉さんはさすがに憶えてないだろうけど。まだ母様が生きていたころ、お友達の方とよく遊びに来てくれたよね。今は吏部で尚書をされているって悠舜さんに伺ったよ」
「そうなんだよ。今日も君が帰ってきてると知って、逢いに来たがっていたんだけどね。黎深には仕事があるから我慢させてきたんだよ」

大変だったよと邵可は朗らかに笑うが、話の通りなら大変なのはきっと吏部の官吏の方だろうなと流珠は思った。茶州で鄭悠舜に聞いた話と「」の記憶が正しければ、現在吏部には頼りになる侍郎もいない。最悪である。

「君が無事に帰ってきたと知って、黎深も嬉しかったんだろうね。すごく心配していたんだよ。黎深は君のことをちゃんと知っているし、何より旅に出たときの君はまだ八歳だった。それに、いくら治りかけていたとはいっても怪我だってしていたしね」

こちらの心情を知ってか知らずか、邵可は現在の吏部など微塵も気にした様子を見せずに優しく告げる。
まるで、微温湯みたいな優しさだな、と流珠は思う。皮肉染みていることは承知の上だが、おそらく自分のこれまでを全て知っているであろう父にこんな態度を取られると、訝しがらずにはいられないのが自分の性格だ。
七年間。どう取り繕っても、短いとは言えない時間。明確な理由も無しに家を出て行ったのは流珠の方。それなのに、どうしてこの人は。


「…父さんは、怒らないの?」


口にした途端、やってしまったと流珠は後悔した。この歳になって(「」と合わせればすでに不惑に近い)自分の感情もコントロールできないなんてどこの馬鹿だ。
咄嗟に口を抑えかけた手を理性で止めても、感情で飛び出した言葉までは戻らない。視線が茶器に向かったまま動けなかった。自分は、怒られたかったのだろうか。

(趣味、最悪…)

いっそのこと、縁を切られるくらい怒られた方が気分が楽だったのかもしれない。断じて被虐趣味ではないが、無条件の許容を受け入れられるほど純粋でもない。考えてみれば、先ほど三太に殴られた時も自分は安心していた。確かに自分は帰ってきたのだと、実感できたからだ。

「怒らないよ」

ぐるぐると巡る思考の途中、小さな雫のような声がぽつりと降ってきた。

「私は君のことを怒らないよ。だって、君はこうしてちゃんと帰ってきてくれたからね」

はっとして顔をあげると、満足気に微笑む穏やかな眼差しと目が合った。
この感じを自分は知っている。父もまた、母と同じだったのか。それともこれは親ならば持つものなのだろうか。十数年前に初めて知ったものを再び目の前にし、流珠は言葉に詰まる。泪こそでないが、目頭は密かに熱を持っていた。母を、思い出した所為だろうか。

もう冷めてしまっただろうお茶を飲み、今度は少し企むように邵可は笑う。

「それに、私の分も秀麗と静蘭がたくさん怒ってくれるだろうからね」
「あ……」
「今から覚悟を決めておいたほうがいいよ。静蘭なんか流珠が旅に出たとき、ものすごーく怒っていたからね」
「…それは、ちょっと怖いかな」
「こればかりは私も庇えないなぁ」

たぶん、庇ってもらったところでふたりの雷が和らぐことはないだろう。なんてったって、怒ったふたりには邵可といえど敵わない。
覚悟はとっくにしていたし怒られるほうがマシだとも思うが、それでもやっぱり逃げたいかも…と密かに、しかしはっきりと思ってしまった。




「そういえば、私が邸に帰ってこれたのには理由があってね」
「理由?」
「うん。流珠は明日、時間空いているかな?」

自分の手で淹れなおしたお茶をすすった流珠は首を傾げた。貴陽には今日帰ってきたばかりで、明日も明後日も今のところ予定はない。とりあえず庭院の畑と果木を綺麗にしようかと思ってはいたが、別に急ぐわけでもない。

「別に…特にはないけど」
「それはよかった。実はね、十日くらい前から秀麗が朝廷で長期の賃仕事をしていてね」
「それで邸にいなかったんだ」

タイミング、ばっちりだったようだ。流珠は自分のなけなしの記憶力に賛辞を贈った。

「そうなんだよ。その賃仕事というのは朝廷の偉い方に頼まれたものでね。流珠が帰ってきたって知ったら、その方がぜひ君にも逢ってみたいって言うんだよ」
「朝廷の、偉い人が…ぼくに?」
「うん。早く邸に戻れたのもその方の計らいでね。もし時間が空いているようなら、明日私と一緒に外朝に来てくれないかな」

(秀麗に賃仕事を頼んだ相手――――霄太師が、ぼくに?)

帰って早々、今度は知恵熱ででも寝込みそうだ。
やっぱりにこにこと微笑む読めない邵可を前に、流珠はもう少し説明してくれと喉まででかかった言葉を、結局口にすることができなかった。