旅する子どもの帰郷から 4
静蘭と別れた秀麗は、その足で再び池のほとりに向かった。
つい先ほど、「自称"藍楸瑛"」に八年前の話をした場所だ。
話し終えた途端、逃げるように府庫に戻ろうとしてしまったけれど、秀麗はもう一度この場所で桜を見たいと思った。
都合の良いことに、話し相手だった男の姿はすでにない。どこへ行ったのだろうと少しばかり疑問も浮かびはしたが、ひとり桜の花を見上げることができることへの安堵の方が上回り、小さな疑問はすぐに消えた。
風が吹き、花びらが舞う。同時に泪を流したばかりの瞳がちくちく痛んだ。
爪が食い込んだ手のひらは、泪を拭うのと同じように静蘭が手当てをしてくれたおかげで、痕こそ残っているものの痛みは少ない。可笑しなものだと秀麗は思う。直接的な怪我より、見えない傷の方が何倍も痛むなんて。綺麗に血の落とされた手のひらを見つめ、秀麗は自嘲した。
池のほとりに腰をおろした秀麗は、地に落ちた薄紅の花びらをひとつ摘まんだ。
桜は秀麗にとって哀しみと泪と平和の象徴。春になって花が咲き誇れば、家族と共に舞い散る花弁を追いかけたことを思いだすし、同じようにその樹の前で淋しげに拳を握る後姿を思いだす。
喜びも悲しみも、同じだけ内包する小さな花を、秀麗は好きだけれど愛することはできなかった。――――― あの、弟のようには。
「…流珠」
今どこにいるのかもわからない、たったひとりの弟の名を呟く。
秀麗よりもひとつ年下の弟は、七年前になんの前触れもなく邸から姿を消した。場合が場合だっただけに、秀麗は弟が誰かに攫われた、もしくは秀麗の知らないところで死んでしまったのではないかと思わずにはいられなかった突然の消失。
旅立つ前に弟が父にだけ残した言付のおかげで最悪の予感だけは消えたものの、安心する事など到底できるわけもなかった。
わずか、八歳でしかなかった流珠。背丈は秀麗よりもほんの少し大きかったし、連日の畑仕事の所為か子どもにしてはかたい手のひらと引き締まった体躯を持ってはいたけれど、それでもまだ、たった八歳の子どもだった。
家族に守られて、親に甘えて過ごしたって構わない歳でしかなかったあの子を、いったい何が一人旅に駆り立てたのか。秀麗は流珠の旅立ち以来、何度も何度も考えた。そしてその度に、浮かぶ答えはひとつしかないことに泪した。
「流珠…っ」
ほんの少し前に使ったばかりの涙腺が、再び緩みそうになるのを秀麗は感じた。
必死で堪えようと、服の上から胸の少し下辺りを強く握る。服越しに硬い輪の感触が指先に伝わった。小さい頃から一度として手放したことのない、自分と弟を繋ぐ唯一の存在。弟が、今も元気で過ごしているか、不安に思わない日はなかった。けれど、そんな日も首から提げた腕環に触れると、片割れとまだ繋がっていることを教えてくれるような気がして安心できたのだ。
八年前のことを「自称"藍楸瑛"」に話した時、秀麗はただのひとつも嘘を吐かなかった。
家が貧乏なこと。
自分も毎日必死に働いていること。
節くれだった指が嫌いだけど、満足していること。
八年前、邸の庭院にあるものを街のみんなにわけてあげたこと。
果実、魚、桜の花、弟が大切にしていた畑もみんな、今はないこと。
自分以外の家族三人の死に、毎日怯えて過ごしていたこと。
あんな思いを二度と味わいたくないから、ここに来たこと。
けれど、秀麗には決して口にしなかったことがある。
王位争いの最中、沢山のものを失くした秀麗だったけれど、それでも運が良いほうだった。最終的に、家族をひとりも失わなかったのだから。
友達も、隣人も逝ってしまった。目の前で、何人もの人が亡くなった。それは、確かに悲しいことだった。泪が涸れるまで泣くくらいの痛みを味わっても秀麗が生きていけたのは、それでも家族が無事だったからだ。
その、最後の境界線すら、失われかけたこと。
きつく強く握り締めた指に、くっきり腕環の痕がついても秀麗はやめない。
手のひらに血が滲むまで爪を食い込ませれば語れた八年前の出来事の中で、唯一今も語れないこと。思い出したくもないのに、忘れることができないこと。
ひらひら、頭の上で沢山の花びらが舞っている。
不意に自分の膝の上に降りてきた一枚を手に取り、秀麗は爪の先でそれを引っかいた。薄い紅の花弁に残る、灰色の線。後宮に入ってから綺麗に磨かれた爪と皮膚の間に、なんとも形容し難い塊が入り込んでいる。微かに伏せられた眼でそれを見つめていた秀麗が指先で弾くと、花弁はまっさかさまに池へと落ちた。
未だ、指先から視線を動かさない秀麗の左眼から、一筋泪が零れ落ちた。