旅する子どもの帰郷から 3
ようやく門をくぐった流珠は、邸に入る前に庭院へと向かった。
歩いている間も、先ほど殴られた左頬がじんじんと鈍い痛みを訴えている。早めに冷やしたほうが痕にならないことは解かっているのだが、それよりも先に確かめたいことがあった。
如何せん、ここまでくると自分は病気なのではないかと思わないでもないが、邸を離れていた七年間、一日として思い出さなかった日はない。流珠にとっては、家族の次くらいに大切な彼ら。
「…うわーやっぱり、変わってないか」
邸の角を曲がり、一番広い庭院のスペースを目の前にし、流珠は想像通りの光景に呆れ、同時に物悲しいような気分に陥る。
庭は、七年経った今も変わらず荒れ果てていた。
まるで春の芽吹きを待つ冬の山のようだと思う。がりがりにひび割れた幹の果木は春だと言うのに芽すら吹かず枝だけが伸びているし、その足元の池は水飛沫を一度としてあげない。魚が、一匹もいない所為だ。
死んでいるわけではないのに、死んだように項垂れている樹木を見ると胸が痛んだ。育てる命を失い、新たな要素を受け取れなくなってしまった大地が淋しそうに、泪すら涸れて乾いている。不意に流珠はしゃがみ込み、からからの地面に手をついた。誰かの頭を撫でるように優しく触れると、指先に暖かな温度が伝わってくる。まだ生きている。確かなその感触に、流珠は自分の口元が自然と緩むのを感じた。
流珠には、本来ならば人が持つべきではない類稀な力 ―― 俗に異能と称される力 ―― が産まれたときから備わっている。しかし、母から受け継いだとされるそれがいったいどんな力だったのか、流珠が知ったのはその母が逝った後だった。母がどんな力を持っていたのかも知らなかったし、「」の記憶を持って産まれたこと自体が珍しいことのように思えたため、流珠は長いこと「前世の記憶」が自分の異能なのだと思っていた。次いでにいえば、今も自分の持っている力がどんなものなのか、流珠ははっきりと理解していない。なんとなく、こんなものではないかと推し量っているに過ぎなかった。
(だって…誰も説明してくれないしな)
母が生きているうちに、聞いていればよかったと思う。
けれど、流珠にはそれがどうしてもできなかったし、母も流珠が尋ねない限りそうした話をすることはなかったために、結局確かめないまま機会は失われてしまった。
何故尋ねなかったのかと聞かれれば、流珠は解からないと答える以外に回答を持ってはいないだろう。自分でも解からないのだ。何故、自分が母に力のことを聞かなかったのか。聞かなければと思うのに、自身が異能と定義されると思うと、結局足が竦んで動くことができなかった。
地面についた手を離し立ち上がった流珠は、今度は池のほとりの果木へと歩みを進めた。先ほどと同じようにそっと指先、次いで手のひらと幹に触れ耳を押し当てる。さらさらと流れる水の音が鼓膜を優しく振るわせる。か細い呼吸ながらも、この木が確かに生きていることを流珠は実感した。
老木、というほどの歳ではないが、若いながらに痩せこけてしまった果木に肌をすり寄せ耳元で囁くように「がんばれ」と告げる。それに呼応するように、耳に伝わる水の音が一瞬勢いを増したように流珠には思えた。
流珠は自分の異能を「花咲爺さん機能」と呼んでいる。
別に流珠が撒く灰が桜の花を咲かせたり、犬がここ掘れわんわんと吼えてくれるわけではないのだが、一番最初に異能を意識したのが野菜栽培時だったためにそう名付けた。ちなみに、これこれこういうことが出来る、と説明がし難いためこんな曖昧な名しか付けられないというのもある。
たとえば流珠の異能が「植物の声が聞こえる」と言ったものであったなら、別の名前を考えただろう。しかし、流珠には植物の声なんて一言も聞こえない。
ただ、なんとなく思うだけなのだ。
この子は今、哀しんでいるように見える。
この子は今、喜んでいるように見える。
感情表現をする赤子を見た時に、親がなんとなくこんなことを考えているのかな、と思うときと同じだ。もしくは、猫が尻尾を振ると警戒していると認識することと大差ない。「なんとなく」理解するに過ぎないのだ。
しかし、その「なんとなく」はことごとく当たるらしく、「なんとなく」の感情に合わせて野菜を育てれば丸々太った甘い実がなり、「なんとなく」お願いしてみたら成長が早くなったりした。
これが異能?と問われればどうだろうと首を傾げるしかない程度の力だが、「」の時は植物相手にそんな風に感じた経験がなかったため、おそらくこれが異能なのだろうと思っている。多分、おそらく。
そんな力が備わっている所為か、流珠の植物に対する愛着はそこそこ深い。
「なんとなく」意識が通じて相手ががんばってくれるなら、自分もそれに値する何かを返してやりたいと思うし、手助けをしてやりたいとも思う。
家族に挨拶が済んだら幹の手入れをしてやろうかな、と考え果木から離れると、次は畑へと向かう。
八年前までは、庭院の半分以上が「流珠の畑」だったが、旅に出る時にはそれも大根畑だけに縮小していた。今はどうなっているのだろう、と僅かながらの不安を感じつつ足を速める。
そして視界に映った光景に、流珠は思わず息を呑んだ。
「…増え、てる…」
大根しか植わっていなかった猫の額ほどの畑が、今では青梗菜に韮まで植わっている。まだ芽吹いたばかりの畑で育てているのは白菜だろうか、葱だろうか。
狂喜乱舞、というほどではないにしても、育てられている彼らが自分たちの現状にそこそこ満足しているように流珠には見えた。一月もあれば食べごろの韮など、かなり生き生き成長している。
「………っ」
畑のすぐ脇に立てられた板に気付いたとき、流珠は言葉をなくした。
膝にも届かない小さな板には、子どもの頼りない筆で「流珠の畑」と書いてある。初めて、自分が大根栽培を始めたときに、姉が立ててくれたものだ。雨風に吹かれたらしく、文字はかなり掠れ、板自体も大分くすんでいた。けれど、流珠にはそれが嬉しかった。
「帰って、来たんだ…」
殴られたときよりも、門をくぐったときよりもはっきり、流珠は実感した。
自分は、家族の元に帰ってきたのだ。
七年前、父にしか告げずに飛び出したあの日から、一度として戻らなかった場所に。今はもう、思い出ばかりしか残っていない空間に。
「……流珠…?」
「ッ!?」
不意に呼ばれた自分の名に、流珠は勢いよく振り返る。
先ほど三太に呼びとめられた時と違い、今度はまったく気配を感じていなかったため、流珠は振り返った先に人がいることにまず驚いた。
それから、その人物がとても見知った人であることに気付き、ぴしりと体が凍りつく。
「あ…」
「ああ、やっぱり流珠だった」
彼の人は、流珠の姿を認めるとその柔和な表情をさらに穏やかに緩め、ゆっくりと近づいてくる。
人のよさそうな顔は、七年経っても曇ることがない。どんなものでも受けいれてくれそうな微笑みも健在だ。
手を伸ばせば届く距離までやってくると、彼の人は歩みを止めその温かな眼差しで流珠を見つめる。今頃自分は、きっとだらしなく顔を歪めているのだろうと流珠は思う。「」の時代を併せれば、年齢なんてさほど変わらないはずなのに、この人には一生敵わないんだろう。だって、自分にはこんな微笑み、絶対に浮かべられっこない。
「大きくなったね。あんまり立派になってるから、吃驚してしまったよ」
「あ、と」
「ん?どうしたんだい?」
向けられた笑顔に、流珠はきつく唇を結んだ。
飛びついて、抱きついてしまいたいという衝動を必死に抑えて顔をあげる。
無理やりに、笑顔らしき表情を取り繕えば、彼の人は「相変わらずだね」と流珠の頭を優しく撫でた。
「お帰りなさい、流珠」
「ただいま、父さん」
やっとの思いで搾り出した声は震えていて、格好悪すぎると流珠は至極後悔した。そんな流珠を父は「格好良かったよ」と、笑ってくれた。