旅する子どもの帰郷から 1



草木も眠る冬の季節にも終わりが見え、あと一月もすれば桜も花開きだす頃。
常に何かとにぎやかな(原因は仕事、喧嘩、借金の催促、暗殺未遂など様々である)州城で、何時にもまして大きな足音が木霊していた。

「なんじゃー」とさして興味もなさそうに顔をあげた州官たちは、騒音の元が"とある"男であることを確認し、またかと呆れ顔で机案に向き直る。中には「うるせー!」と硯を投げる者もいたが、"とある"男はそれを難なく受け止め(避けると硯で傷ついた壁の修理費を請求されるためだ)目的地へと向かう足をひたすらに動かした。

州城の最端に位置する部屋に辿り着いた"とある"男は、あまりに全速力で駆け抜けてきたために薄っすら額に浮かんだ汗を乱暴に拭うと、ノックもせずに扉を開けた。

「流珠ーーーっ!」
「燕青?どーしたの、汗なんてかいて珍しい」

大慌ての燕青とは対極に、部屋の主(本人曰く居候ではあるが)は飄々とした様子でのたまう。ふたりの間に挟まったなんとも言えない温度差に、燕青は自分の頭をがしがしと掻いた。
こんな時まで普段どおりを貫くな!と突っ込みたい衝動をなんとか抑え、燕青は室を訪ねた第一の理由を口にした。

「流珠!お前、貴陽に帰るって本当なのかっ!?」

歳の割に、普段から落ち着きある子供ではあるものの、さすがに自分が激昂している時くらい取り乱す欠片を見せてくれてもいいのに。「ああ」と顔色ひとつ変えることなく燕青を見返す流珠の態度に、いい加減泣きたいと思った。
が、燕青の心など露知らず。流珠は青年期特有の中性的な微笑みで言う。

「うん、そうだよ。そろそろ実家に戻ろうと思って」
「実家って、お前家出してきたんじゃなかったのかよ!」
「違う違う。ちょっと見ておきたいことがあって、色々国内を転々してただけ。家族仲はいたって良好だよ」

むしろ、良すぎるくらいじゃないかな。
けらけら笑って、流珠は燕青の入室後から止めていた手を再び動かし始める。
流珠の手元には大きい巾着モドキに二本の紐をくくりつけた「流珠特製なっぷざっく」が置かれている。簡単な作りではあるものの、両手が空いて更に引っくり返しても荷が零れないという優れもので、茶州州官の間では旅のお供として定着しだしている便利な荷入れだ。
その中に次々詰め込まれていくものを見て、燕青は先ほどの言葉が正しいことを実感した。よくよく室を見てみれば、元から少なかった流珠の荷物が更に少なく、というか殆どなくなっている。本当に、この室を出て行く気なのだ。

「こんな大事なこと、いきなり決めるなよな〜」
「いきなりじゃないよ。二月前には悠舜さんに暇乞いの話してあるし、先月中にみんなへの挨拶も済ませたし、凛さんと彰さんにも話済みだから」
「…俺だけ報告なしかよ」

周囲の様子をみて、なんとなく予想はしていた燕青だったが実際に本人の口から聞いて更にやるせない気持ちになる。実際、燕青が流珠の旅立ちを知ったのは、彼の副官である鄭悠舜が「そういえば、流珠は今頃荷作りでもしてるんでしょうかね」とさり気なく茗才に話しかけているところを聞いたからだった。おそらく、副官の情けがなければ、燕青が知らないところで流珠は旅立っていたのだろう。自分のことを隠すことに関して、流珠は過ぎるほどに長けていた。

「燕青には黙ってるつもりだったんだけどね、ぼくは。でも、やっぱり何処からともなくばれるものなんだね」
「あ・の・なぁ!」
「明日、ここを出るんだ」
「ッ!」

急に浮かんだ真剣な表情に、燕青は言葉を失くす。
ぽん、と詰め終わった荷物のてっ辺を軽く叩いてから、流珠は「なっぷざっく」の紐を固く結んだ。まだ幼い子供だった流珠が茶州州城で働くようになって、すでに三年。ここではない何処かに"家"があると知っていても、燕青は流珠が最後まで自分たちと苦楽を共にするものだと思い込んでしまっていた。それくらい、流珠は茶州に溶け込んでいたし、茶州も流珠を受け入れていたのだ。

「…帰って、くるのか?」

決してそれはないだろう、と解かっていても燕青は問わずにいられなかった。
案の定、首を振って答えた流珠は小さく「ごめん」と言葉を漏らす。

「謝るくらいなら、もうちょい早く教えろよな」
「ごめんね、燕青。でも、ぼく後悔はしてないんだ。たぶん、燕青に知られずに出ていけたって罪悪感は感じても、後悔はしなかったと思う」
「…俺に言わなかったのは、なんでだ?」
「みんなの中で、燕青だけが何処かに行きたがってる気がしたから。なんのしがらみもないぼくが、出ていくのを寂しがると思った」

確かに、燕青はわずか十五歳の"少女"の洞察力に内心舌を巻いた。
事実、十年近く続けている州牧業に窮屈さを感じ出している燕青だ。流珠が自由気ままに何処かへ行くことを、羨ましいと少しも思わないわけではない。

けれど、それだけでもないのだ。

室に入って以来、ずっとしかめっ面だった燕青は、やっと自分が笑えたことに気づいた。

「ばっかだなー、流珠」

ぐりぐりと小さな頭を撫で回すと、流珠は黒い瞳を瞬かせ不思議そうに燕青を見上げる。

「怒らないの?」
「んーほんとは怒りたかったんだけどなーなんか、もうどーでもいいや。
 お前は帰ってこないけど、…また、逢えはするんだろ?」

今度こそ本当に、流珠は目を見開いた。

「…また逢って、くれるの?」
「当ったり前だろーお前が嫌だ、っつても逢いに行くからな!」

燕青が言えば、流珠は頬を赤らめ心底嬉しそうにはにかんだ。
そんなところは、十五歳に見えなくもない。何気に失礼なことを考える燕青であった。

「貴陽に来ることがあったら、ぼくの家に来てよ。きっと、姉さんも燕青に逢ったら喜ぶと思う」
「おっ。流珠の姉ちゃんってーと、料理が美味いって自慢のか?」
「そう!それに姉さんは優しいし頑張り屋だしいつでも一生懸命だし。絶対燕青も好きになるよ」
「そっかーお前、ほんとに姉ちゃんのこと好きなんだなー」
「二人っきりのきょうだいだしね。でも、たぶん姉さんがぼくの姉さんでなくても、きっと好きになったと思うよ」

そういえば、姉のことを語るときの流珠はいつだって嬉しそうに眼を輝かしていたな。これからは、本当に過去になってしまう日々を思い浮かべ、燕青は淋しいような生温いような感情を覚えた。



「…貴陽でも、元気でやれよ」

優しい手のひらで頭を叩いて燕青が言った。

「うん。燕青もあんまり無理しないようにね」

「茶州の未来、ぼくも楽しみにしてる」と笑って流珠が言った。

片や何れあるかも知れぬ再会の日を夢み、
片や夏に訪れる邂逅を確信し、ふたりは別れる。

それぞれの守るべきもののため。自分が、出来ることをするために。