佳人薄命、されど哀し 3
家の中にもう本当に母がいないのだと秀麗が実感したのは、どんがらがっしゃんという大きな音が庖厨の方から聞こえた瞬間だった。
母の死後、秀麗たちの家はあっという間に変わっていった。
医者が裸足で逃げ出すほど病弱だった秀麗が不思議と元気になる、という良い変化もありはした。が、その大半はやはり歓迎できないものであり、幼いながらに秀麗は自分が如何に役立たずな子供であるかを知った。
室を出て、音源の方へ向かう途中に覗いた場所は、どこもかしこも酷い有様だった。
広い家に十分とはいえなかったが、幾人かいたはずの使用人たちはたったひとりの家人を残しみな出て行き、その度に家の中にあったものの数も減っていった。いつも割ってしまわないように気を付けていた綺麗な壺だとか、毎日のように増えていった本の山。それに、母が身に纏っていた全てのもの。ものが少なくなった割に散らかって見えるのは、これが所謂「やさがし」されたあとだからだろうか。数少ない蓄積言語の中から現状に見合った単語を思い浮かべ、秀麗は下唇を噛む。
(とうさまは…せいらんはどこ?)
もう、何日彼らの顔を見ていないんだろう。
それどころか、母が逝ってから何日経ったのかさえ、秀麗ははっきりと覚えていなかった。おそらく、まだ数日しか過ぎていないのだとは思う。しかし、突きつけられた事実に押し流されるように時間は消え、途中で振り返ることすら許してくれない。今、こうして自分が生きていることさえが奇跡のようだ。
(そういえば、ときどきごはんがおいてあったわ)
気がつくと、ときおり室の卓子の上に置かれていた冷えたご飯。おかずはなにもなかったが、日々確実に訪れる空腹をそれで満たしていたような気がする。よく、覚えてはいないけれど。あれはもしかしたら、姿こそみないけれど父や家人が用意してくれていたのかもしれない。元気に動けるようになったとはいえ、秀麗はまだ子供だ。食べるものがなくなれば体調は崩れるし、下手をすれは死んでしまうこともある。それを危惧して、母の死を拒絶して篭っていた秀麗のために、食事だけでもと気を遣ってくれていたのだろうか。
(それに…あの子は?)
庖厨に続く最後の角を曲がる。その頃には、秀麗の頭の中はたったひとりの弟のことでいっぱいになっていた。
母が逝ってから、顔を一度も見ていない。幼い自分よりも小さく、守ってやらなければならない弟。彼の元にも父たちはご飯を届けてくれていただろうか。もしかしたら、次々無くなっていった家財と一緒に、連れていかれたりはされていないだろうか。だって、あんなにも可愛い子なんだもの。
幼い頭で考えはじめると、本当にもう家の中にいないのではないかと秀麗は無性に不安になった。自分のあとをトコトコと危なっかしげについてくる弟。母に頭を撫でられると心底嬉しそうに笑う弟。雨と雷が大嫌いでよくすみっこで丸くなって泣いていた弟。
(流珠は、どこ?)
ガサゴソと音のする扉の前に立ち、秀麗はそっと隙間から中を窺う。
瞬間、最悪の予測に塗れ不安ばかりが込み上げていた心が、綺麗に払拭されるのが解かった。同時に、それと違う熱く痛む感情が、秀麗の中でむくむくと広がりはじめた。
「流珠!」
「ねえさま?」
庖厨で錆びたお鍋と格闘していたのは、久々に顔をみる弟だった。
床には先ほどの音の原因だと思われる鍋やら釜やら(しかしどれも古びたものばかりだ)が転がっている。覚束ない足取りで庖厨に秀麗が入ると、お鍋を持ったままの流珠がどこか沈んだようすで近寄ってきた。
「こんにちは、ねえさま。うるさくしてごめんなさい」
やはり先ほどの音は流珠が響かせたものだったのか。納得すると同時に秀麗は、先ほどから胸の奥で存在感を増している感情がさらに大きくなったことに気付いた。それは母が死んだと聞かされたときの哀しみにも似ている。けれど小さかった弟がはじめて秀麗の名を呼んだときに感じた、暖かな気持ちのようにも思えた。
小さな体でめいっぱい背伸びして、流珠は持っていた鍋を卓子に置いた。そして、今度は水の張った桶の中から葱を一本取り出した。白と緑の細い姿が綺麗に見える。どうやら、水を使ってしっかり泥を落としたようだ。
「流珠…そのおねぎは?」
「きょう、いちでかってきたんです。いつもごはんしかたけなかったけど、きょうはぼく、おつゆもつくろうとおもって」
秀麗は自分の耳を疑った。
そして、今も胸に蔓延る感情がいったいなんであるのかを知った。
気付いたときには、葱を持ったままの弟の体を引き寄せ抱きしめて、秀麗は泣いていた。手のひらから伝わる弟の体温が暖かく、彼が生きていることを実感させる。今はまだ、自分でもすっぽり包めるこの小さな少年の温もりがここにあることが、心底嬉しくて仕方なかった。
「ねえさま?どうしたの?」
「ごめっ…ごめんね、流珠…っ」
この小さな弟を、守ってやるべきは誰だっただろう。母が逝き、使用人たちが減り、父と家人の姿がない今、流珠を守るべきはいったい誰だったのだろう、と秀麗は思う。流珠を守るべきだったのは流珠自身ではない。たったひとりの姉である、自分だった。
(なのに、わたしは)
小さいころから、どことなく甘えるのが苦手な弟だった。きっと、秀麗が病気がちだったことも影響しているのだろう。母のことを大好きで、本当は独り占めしたかったはずなのに、秀麗が寝込んでいるときはいつも遠慮してひとりで居ることを良しとする弟だった。秀麗はそんな弟を愛していた。可愛いと想い、愛しいと想い、誰に言われるわけもなく、弟を守るのは自分だと信じていた。秀麗よりも小さく弱い存在が、流珠しかいなかったこともこの感情に拍車をかけていたのかもしれない。人は何か守るべきものがある方が強くなる。その対象が、秀麗にとっては弟である流珠だった。
けれど、実際にはどうだろう。
秀麗が茫然自失としていたときに秀麗を守っていたのは、いったい誰だったのだろう。
「なかないで、ねえさま」
秀麗の泪で滲んだ視界の先で、流珠が笑う。秀麗の中に浮かんで、むくむくと大きくなっていった自身への憤りを知って、それを洗い流してくれるように、流珠は笑っていた。嬉しいような淋しいような、けれどやはり自分が不甲斐なくて許せないような気持ちを抱いたまま、秀麗はさっきよりも強く流珠の体を抱きしめる。とたん、合わせるように"ぐう"と低い音がふたりの間で小さく鳴った。
「…流珠?」
「えへへ。ねえさま、ぼくおなかへっちゃいました」
葱を持っていないほうの手で照れ隠しのように頬を掻く流珠の腹がまた鳴った。
これには泣いていたはずの秀麗も思わず笑ってしまい、姉弟で抱き合ったままふふふえへへと笑いあうというなんとも不可解な構図が出来上がることとなった。
しばらくふたりで笑いあった後で、秀麗は流珠と顔を合わせ、言う。
「じゃあ、ねえさまといっしょにごはんつくろうか?」
「はい!きょうはぼく、みんなでたべたいです」
「とうさまとせいらんもいっしょね。ふたりをびっくりさせようね」
「はい、ねえさま!」
その後出来上がった、水が多すぎたらしくおかゆと成り果てた(ただし芯は残っていた)ご飯と、塩加減がわからず一握り丸々鍋に放ったために塩辛くなった葱入りおつゆは、作った本人の秀麗でさえ食べるのが大変な出来だった。
けれど、流珠が引っ張ってきた父と秀麗が引っ張ってきた静蘭との四人で囲んだ食事は、秀麗にとってなによりも倖せなときだった。父と家人が見せるどことなく引き攣った悔しそうな表情は、きっとつい先ほど庖厨で流珠を発見した自分とそっくりなんだろう。あの気持ちが自分のものだけではないことに、秀麗はほっとした。それくらい、優しいけれどちくちく痛む気持ちだったのだ。
「ねえさま、このおつゆおいしいです」
「ありがとう、流珠。でも、こんどはもっとおいしくつくるわね」
「じゃあぼくも、もっとぴかぴかにおそうじできるようにがんばります」
「それじゃあ、きょうそうね」
「はいっ!」
胸を突き刺す痛みはそれ以来一度も消えたことはない。けれど、秀麗はその痛みすら、愛しいと思う。その晩、こっそり秀麗の室を訪れた流珠が「ないしょです」と言って渡してくれた鈍色の腕環を見るたび。お世辞でも美味しいなんて言えないつゆを褒めてくれて、一緒にがんばろうと言ってくれた弟を愛することと同じように、秀麗は何度でも思い出す。自分が守るべき、小さな手を。その手が守ってくれた、秀麗自身を。
母が逝った同じ夏。
秀麗はただひとつ、掛け替えのないものをもう一度見つけた。