佳人薄命、されど哀し 2



父に抱きかかえられたままくぐった扉の先には、かつて自身が嗅いだことのある嫌な臭いが広がっていた。おそらく父も気付いていたのだろう。すぐそばにある父の顔がほんの少し強張るのを流珠は見逃さない。過ごした時は短くとも、流珠は紅邵可の娘なのだ。

所謂、死臭と呼ばれる香りの中心に、母は居た。
母を愛していた。
流珠をこの世界に産み落としてくれたのは母であり、また「」を流珠たらしめたのも母だった。
父も姉も静蘭も愛していたが、それでも母だけは特別だった。けれど、それはきっと流珠だけに限ったことではなかったはずだ。父にとっても姉にとっても静蘭にとっても、母は唯一無二の大切な人だった。もうすぐ、過去の人となってしまうけれど。

「かあさま」

寝台に横たわる母は、どうしてこんな時でさえも綺麗なのだろう。寝台に駆け寄り呼びかければ、しなやかな動きで流珠の手をとる。触れた指先が、人のものとは思えないほどに冷たく、流珠は逃げ出してしまいたくなった。たとえ知っていても、信じられることと同意ではない。逃げたところでなにも変わらないと解かっていても、母の死を受け入れることがまるで流珠自身が失われるように辛いのだ。

先よりも近くで、雷が鳴った。二度、三度。母を呼んでいるのだろうか。
父や姉だけでなく、二人の叔父にも受け入れられた母だった。誰もが母を必要とする。 ――――― だから、ここにいてくれないのかもしれない。

「かあ、さま…かあさまっ!」
「ふふふ。ほんに流珠は泣き虫じゃのう。赤子の頃もよう泣いておったし、雨の日は流珠が泣く日となっておったしな」

体温のない指が、流珠の目尻を拭う。
拭いたところでまた溢れだすことくらい解かっているくせに、わずかな時でも泪が消えた顔を確認して、母は満足気に笑った。

あの日、自分を憎めと言った母。
だた一度母を憎むとしたならば、流珠にとってこの瞬間以外にはないだろう。
」は父よりも母よりも先に逝った。だからこの死は、流珠にとってだけでなく「」にとっても初めて受け入れねばならない身近な死だった。人の死の重さなど真面目に考えたことのない人生だ。おそらく「」の二十一年間よりも、「紅流珠」の数年間の方が何倍も時間をかけて思いあぐねいたことだろう。答えはただの一つも見つからなかったけれど。

窓から見える空の色が、二十四色の絵の具をぶちまけたよりも黒かった。
今が夜なのか、それとも昼なのかもわからない。叩きつけるような雨の音に雑じって、時折目に痛いほどの雷光が雲間を劈く。
昨日まで、夏の空は眩しい位に蒼く白い雲が綿菓子のように浮かんでいたのに。突然現れた黒い雲は、矢張り母を奪うために訪れたのだ。だって、母も昨日までは元気すぎるほどに元気だった。いつものように、寝込んだ姉の為に薬湯をつくり、いつものように美しく笑っていた。なのに、今日になって突然。

「我が背の君…あんまり泣くなよ」

淋しげな母の声につられ父の顔を仰ぐ。流珠には、父の泪は見えなかったが彼自身もこの事実から目を逸らしたがっていることがありありと感じ取れた。なにせ、固く引き結ばれた口元が流珠自身とそっくりだ。

「邵可よ、妾は倖せじゃ。秀麗に流珠に静蘭。皆、かわゆい子ばかりじゃ。
 流珠。そなたにも妾の所為で迷惑をかけるが、邵可たちと居れば大丈夫だのうて。安心して過ごすのじゃぞ」
「かあさまは?」
「すまぬな、流珠。そなたには…解かっておったのじゃな」

すらりと伸びた白い指が流珠の頭を撫ぜる。動物の刷り込みと同じ原理なのだろうか。流珠はこの手で撫ぜられる瞬間が何よりも好きだった。「」としての悲嘆も、流珠としての葛藤も、何もかもを綺麗に払拭してくれる優しい温もりが、世界中の何よりも大好きだった。
異能、というわけのわからぬ称号ゆえに女として生を受けながら家族さえも謀り男として育てられようとも。この感情が変わることは決してない。それはきっと、母の死後すら誰にも超えられないだろう。

「邵可。子供らを頼んだぞ」

これまで聞いたことのないくらい大きな落雷の音がした。
父に向かって伸ばされた母の腕が柔らかな寝台の上に落ちた。

母の最期の言葉はあまりに優しく、流珠は動かなくなった母をその目で見て手で触れても、心の底で理解することが出来なかった。
気がつくと、泪で濡れていたはずの瞳は痛みを孕むほどに乾いている。
流珠は綺麗に眠る母の腕から、二連の腕環をそっと外した。

最後に触れた母の手は、あの日のコンクリート以上に冷たく、流珠に傷を残した。