佳人薄命、されど哀し 1
雷の音がこんなにも怖いと感じたのは初めてだった。
庭院へと続く小さな段差に腰をかけ、流珠はただひたすらにこの夏の嵐が通り過ぎてくれることを願った。夏に雷がなることも、雨が降ることも嫌いなわけではない。「」の頃はむしろ雷を綺麗だと思い好んでいたし、暑い日の雨は体に纏わりつく熱を奪いさってくれるとかなりの高評価を付けていた。
けれど、流珠としての自分は、雨と雷――特に雷――が嫌いだった。
(雷なんて無くなればいい)
「」として文章を読んだときには、そんなこと小指の先ほども思わなかった。あの時はあくまで秀麗も邵可も母も紙の上の存在であり、「」との関わりなどそれこそ皆無で、正直彼らが苦労しようと死に絶えようとも感情移入して泣けるくらいが関の山だ。
けれど、流珠は違う。
流珠にとって雷が攫っていくのは実の母であり、残されるのは実の父と姉、それに自分たちをとても愛してくれる家人なのだ。
「」の記憶では、母がいつ亡くなるのか、正確な日にちまでわからなかった。ただ、雷が怖いくらいに鳴っていた夏の日だったと、それだけ覚えていた。夏がくるたび、流珠は母にしがみつき、雷が鳴るたびに泣いた。秀麗が寝込んでいるときは邪魔にならないよう、部屋の隅で毛布を被って泣いた。父も母も姉も家人も、みな流珠は雷が怖いのだと思っている。けれど、それは違うのだと流珠だけは知っていた。流珠が怖かったのは、雷ではない。母が、いなくなることだった。
「流珠」
「とうさま」
両腕で膝を抱えたまま、顔をあげた流珠は今にも泣き出しそうな父を見た。
家人の静蘭は、先日から寝込んだままの姉、秀麗の元にいるのだろう。きっと、姉が目を覚ます頃にはこの嵐も去っている。大切な、大好きなあの人を連れ去って。
「とう…さまっ!」
雨の音が強くなった。遠くの空が紫色に光った。
流珠が着物の端を強く掴むと、父は彼女を包み込むようにそっと頭ごと抱きしめた。小さな流珠の体はすっぽり邵可の腕に収まりそのまま抱き上げられたが、ちっとも安心できなかった。どんなに違うと流珠が否定しても「」の記憶が起こり得る未来をはっきりと知っていた所為だ。こんなことならば、友人に借りた小説など読まなければよかったと思う。もしくは、この世界がただ似通っただけで、まったく違うものであったならば。紅家を追い出され、茶州で静蘭を拾い、貴陽で暮らすようになったとき、流珠は何度も願った。たったひとつでもいい。自分という存在が加わっていることで「」の記憶にある物語から踏み外れてくれれば、と。そうすれば、母も死なずにすむかもしれないと、信じられたのに。
「流珠」
自分の名を呼ぶ父の声が、かすかに震えていることに流珠は気づく。残されて、悲しい人は誰だろう。何も知らなかったこの人だろうか。何かを知っていた自分だろうか。それとも、何年も自分を責め続ける、姉なのだろうか。
「最期を…一緒に看取ってくれるかい?」
頭の上から直接響く声に、流珠は父の着物を堅く握り返すことで応える。小さく頷いた父は、流珠を抱きかかえたまま、母のいる室へと重い足を運んだ。
降り続く雨の音は、まだ消えない。