一寸先はことのはじまり 4
「あーあー」
「なんじゃ。まだ起きておったのか」
「流珠」の母は、音も鳴らぬ静かな仕草でゆりかごに近づいてきた。こんな夜に、「流珠」の夜泣き以外で逢うのは初めてだ。時折叔父(ちょっとばかし血走った目が怖い青年で、は"変な方"と覚えている。ちなみにもう片方は"唯一まとも、ただし当家比"だ)が扉の影から覗きにくるが、さすがにそれ以外でこんな風に訪ねられた記憶は無い。もちろん、大半の時間が「流珠」と共に眠っている所為でもあるが。
「ううぅー」
「そなたはほんに面白い子じゃのう。秀麗も妾と邵可の子だが、そなたほどに子供らしからぬ子ではなかったぞ」
「うう?」
「やはり、妾の所為なのかのう。そうであれば…妾は生涯流珠に恨まれねばならぬかもしれぬな」
だから、そんなことがあるわけないと何度笑えばわかるのか。舌っ足らずで怒ってみせても感情の1割も伝わらないが、は必死に訴えかける。ゆりかごの上を這いつくばって進み、ぺしぺしと「流珠」の母の腕を叩いた。小さな手はいまだ扱いづらく、短い指では文字を書いて意思の疎通を図ることすら出来ないが、叩くだけなら簡単だ。布越しに何度も何度も腕を叩いていると、の頭上でぷっと吹き出す音が聞こえた。どうやら女性の笑い声らしい。こちらは必死で怒っているのになんてことだ。は「流珠」の表情を出来る限り恨めしそうに容作って顔をあげた。
「すまぬ、すまぬな流珠。じゃが、そなたがあまりにもかわゆいばかりに、思わず笑ってしまったのじゃ。
ふふふ。そう怒るでない、流珠よ。たとえそなたが子供らしくなくとも、そなたは妾と邵可の子じゃ。そなたが嫌がっても無駄じゃぞ。もう決まっておるからのう」
いったいどんなジャイアニズムだ。思わず突っ込みたくなったではあったが、そう決められずとも「流珠」が二人の子供であることに相違はない。正しいことを言われているはずなのに、妙に唯我独尊な思考を感じてしまうのは何故だろう。が首を傾げると、同じく首を傾げた「流珠」の頭に柔らかな手のひらが落ち葉のようにそっと触れた。
「のう、流珠。そなたに受け継がれてしまった異能は、一体なんであろうな。
妾と同じであれば、気付かれぬ限りは無害なはずじゃ。しかし…妾はそなたが心配じゃ。そなたはすでに、妾の言うことを理解しておる。ゆえに妾は、邵可と黎深殿に頼み、そなたを男の子(おのこ)として育てるよう決めたのじゃ」
「うう」
「天つ才の持ち主であるならば、尚のこと。それでなくとも、そなたの生は妾の由縁で騒がしくなること間違いなしときておる」
大きな手のひらは、「流珠」の丸い頭を幾度も撫ぜる。指が触れる微かな気配が心地良い。なぜだろう。この人に触れられていると、無性には安心できた。「流珠」の中に生きる「」も、「」が奪った「流珠」もまるごと抱きしめて、許してくれるような気にさせる、この手のひらが愛しかった。
「愛しておるぞ、流珠よ。そなたの全てが妾の倖せじゃ。無論、邵可と秀麗もおんなじじゃ。妾たちは、どんなそなたでも愛しておるぞ」
それがたとえ「女の子」でも偽った「男の子」でも。どんな「異能」を持った子でも。
彼女の言葉は、きっとそう告げたかったのだろう。全てを包む柔らかな微笑みは慈愛に満ち、彼女が「流珠」を愛していることが痛いほどに解かった。
けれど、はその時まったく違うことを思っていた。
それがたとえ「女の子」でも偽った「男の子」でも。どんな「異能」を持った子でも。
同様に、彼女は ―― 母は ―― 愛してくれるだろうか。
それがたとえ「紅流珠」でもその中の「」でも。
「あぅい?」
「おお、そうじゃ。愛じゃぞ、流珠。
妾も、永いこと忘れておったものではあるがのう。この馬鹿げた想いがあるゆえに、流珠と秀麗がおるのじゃぞ」
「あーいー」
「ふっふっふっ。愛しておるぞ、流珠。そなたのことを愛しておる。邵可も秀麗も、黎深殿も玖琅殿もそなたが愛しいのじゃ。だからのう、流珠よ」
続く言葉は、流珠の耳元でそっと囁かれた。
ゆっくりと離れた「流珠」の母の表情は、今までが見てきた中で一番輝いて見えた。眩しい位に美しく、満足気な微笑み。は知った。「」も幼い頃は与えられていたのかもしれない。けれど、物心ついてだんだん歳を重ねる毎に、それを信じることは反比例のように困難になっていた。だから、「」としてその感情を認識したのも「流珠」同様初めてだった。
「む。なんじゃ流珠。そなた、また泣いておるのか。流珠はほんに泣き虫じゃのう。そうじゃ。明日は玖琅殿に頼んでそなたの好きな蜜柑をおやつに頼もうかのう。どうじゃ?今から楽しみであろう」
ひたひたと頬をつたいゆりかごの布を泪が濡らす。
「流珠」の耳元に口を寄せた母は、あの時言った。
『そなたも、そなたを愛するのじゃぞ。それから、気が向いたら妾たちも好いておくれ』
この人ならば、たとえこの生が「紅流珠」であろうと「」であろうと、全てひっくるめて愛してくれる。人間がどこかで持つ、惜しみなく与えるだけで見返りがなくとも愛しいと想える"無償の愛"を、は初めて知った。
この存在が、「紅流珠」であるのか「」であるのか、それに答えが出たわけではない。未だにの「流珠」に対する罪悪感は拭えないし、「」が存在する意味すら見出せない。けれど、は思う。その全てをまとめて、「流珠」の母は愛してくれると言う。「紅流珠」だけでなく、「」が内在する「紅流珠」を愛してくれるのだと。なれば、自分もそれを信じたい。その愛を、母の言葉を。「」を抱いたまま、「紅流珠」として生きることを許してくれた、彼女を。
(私も、いきよう。紅、流珠として)
「」を殺さぬまま共に、「紅流珠」として。
彩雲国屈指の名門貴族紅家直系、邵可の長子「紅流珠」の奇特な一生の始まりである。