一寸先はことのはじまり 3



再びが目を覚ましてから、「流珠」が自分の手と足で動けるようになるまでの時間はあっという間に過ぎた。光陰矢のごとし、とはまさにこのことか。体感してみてこそ諺は意味がわかる。自身の体感を重視する昔の人ならではだ、との感心は尽きない。

はじめて自分が「紅流珠」として気付いたのは、まもなく春本番という季節だった。夏が来て秋が過ぎ冬が顔をのぞかせたころ、年明けと同時に「流珠」は二歳を迎えたらしい。生まれてから二年なのか、それとも数えで二歳なのかまではの知るところではない。が、なけなしの記憶が正しければ「」の住んでいた家の隣に以前越してきた羽有人(これでハアトと読むなんとも偉大な少年だ)くんは二歳ですでに二足歩行していたから、同じ二歳でありながら足のみで歩けぬ「流珠」はまだ生後一年未満なのではないかと信じている。むしろ、個人差があるだろうと突っ込みもあるだろうが、あの羽有人くんに負けるのが癪なだけでもあった。

「ねーね」
「すごぉい、りゅうしゅ!もうおしゃべりできゆのね」

「流珠」の姉である秀麗は、「流珠」を抱いた母親の膝の傍らで楽しそうに手を叩いた。かくいう秀麗といえど、周囲の話からすればまだ三つ。「流珠」のひとつ上なだけでしかない。それなのにここまで口が達者とは。密かにあと半年以内に会話が成立するようになってやると心に誓う瞬間だった。

「流珠」を弟として可愛がり、時折僅かな嫉妬心をみせる(姉なれど、親が取られたと思うのは子の常である)秀麗があの「秀麗」であると気付いたのは、「流珠」が睡眠と覚醒を五回ほど繰り返した後だった。
秀麗、邵可。それに、三日と空けずにやってくる邵可の弟であるらしい黎深に玖琅。いくら中の中程度の学力しか持たなかった「」の記憶力と言えど、死の淵で続きが読みたいと思った小説のことくらいは覚えている。無論「流珠」の持っている「」の記憶が一片の欠損もなく正確かどうかは判別できない。が、「」の記憶を信じるのならば、間違いなく。

ここは、彩雲国の世界なのだ。

紅秀麗が主人公の中華風ファンタジー。「流珠」はその世界の住人なのだ。
それと気付いた時のの驚きようはなかった。まず初めにこれは夢なのだと思い(むしろ思い込みたかった)ゆりかごの上から転がり落ち、室の壁に頭をぶつけてみた。当然痛かった。しかもそれを見つけた青年に大声で叫ばれ、それから十日ほど監視の目が外れることは一度もなかった。
次いでが考えたのは、二十一世紀の科学があまりに進化し過ぎて、自分の脳内記憶が何かしらのアトラクションに利用されているのではないかという、突拍子もないものだった。いわゆる二次創作を体感しよう!みたいな謳い文句の実験台かなにかとして、あの時死にかけた「」の記憶が人工知能の基盤として再利用されているというものである。なるほど、それなら辻褄も合うかもしれない。が、この考えも時間とともに確実に成長しつつある「流珠」を実体験することで否定された。この体は機械でも紛い物でもない。確実に「」であると同時に「紅流珠」なのであった。
そのうちには、あの冬の日に死んだ自分が生まれ変わった先が、こんな彩雲国にそっくりな世界なのかもしれない、と考えるようになった。時代の前後も同じ次元なのかも知らないが、「」の常識であれば残るはずのない前世の記憶というやつが、彩雲国ではたまたま偶然残ることもあるのかもしれない。すなわち、自分はただの偶然の産物で、夢だとか実験だとか前世だとか、そんなの一切合財気にせず、次の生である「紅流珠」の一生を「」ではなく「紅流珠」として生きるべきであり、それが正しい形なのだ、と。

考えはじめてみれば、確かにそれが正しいように思えた。
の周囲の人間たちは、みな「流珠」という名の赤子を可愛がり、おそらくその中にある「」の記憶など知りもしない。ここに存在するのは「流珠」なのだと、は何度も突きつけられてきた。その度に、本当に「」は死んだのだと、実感した。
それは「流珠」にとっては些細なことかもしれないが、「」にとってはとてもつらいことだった。身が捩れるほど笑ったことはあるが、身が擦り切れるほどの悲しみを、ははじめて体感した。「流珠」と名を呼ばれるたびに、カンナで薄く一枚ずつ、「」が削がれていくのをはっきりと感じた。背中を刺されたときよりも、視界が暗くなって意識が無くなったときよりも強く、は「」の無意味さと無力さを知った。
たとえば全ての人間に前世があったとしたら。それを、世に生きる大半の人間が覚えていないことは必然なのだろう。「」が「紅流珠」として再び生きても、その生は「」が為し得なかったなにかを達成するための生ではない。「紅流珠」として新たな関係の中で生きるものなのだ。その中で、過去の関係の記憶や前世の後悔、恨み辛みが残っていては、きっと再び0からやり直して赤ん坊からがんばろう!なんて思って生きることなど出来はしない。

(だって、こんなにもいたい)

」が否定されてゆく度、は泣いた。
けれど、「流珠」の涙はどうしても「」の泪にはならず、ただ悲鳴のように声をあげ、周囲を困らせることしかできなかった。
こんなにも否定され続けながらも、どうして「」は消えてしまわないのか。は動けるようになるまでのゆりかごの中で、そればかりをずっと考えていた。
「流珠」の中に「」が残ることにどんな意味があるのだろう。それとも意味などなく、たまたま残ってしまっただけなのだろうか。だとしたら、なんて「流珠」は運が悪いのだろう。「流珠」が「流珠」として体験するはずだった駆け引きも妥協もない純粋な幼児時代の記憶は、「」がいることで消えてしまうのだ。これでは「」が「流珠」の体を乗っ取った妖怪のようである。
あながち、それも間違いではないのかもしれない。なにせ、母は産まれたばかりの「流珠」に「自分を恨め」と言ったのだ。「流珠」の母は気付いているのではないかとは時折考える。「流珠」の中にいる「」の存在に。固有名詞までは知らねども、得体の知れない何かが「流珠」の中にいることに。

それを確かめるべく、は所謂ハイハイ歩きが出来るようになってからは、なにかにつけて母の側へと寄り添うことにした。「流珠」の父である邵可や姉の秀麗は、母ばかり追いかける「流珠」を微笑ましく、どこか羨ましそうに見ていたが、当の母は心底嬉しそうに笑っていた。見当違いだ。はおそらく疎ましく思われ、邪険に扱われることを期待していたというのに。本当の子供である「流珠」を消した「」を憎んでくれることを期待し、同時に「」の存在を肯定してほしかったのかもしれない。実際、がそこまで深く考えていたのかどうかは自身にも定かではない。だが、一大決心の如く挑んだ試みがいとも簡単に撃破され、はそれ以上何かをすることができなくなってしまった。

」は間違いなくここに居て、
されど「紅流珠」が今を生きている。

泣いては寝て、起きては泣き、たまに心の底から笑って「紅流珠」の中で死んだはずの「」が生きている。

考えても、考えても。行きつく先も答えも見えない状態に、段々と考えることすら億劫になり始めた頃だった。 家の中が寝息で溢れた時刻、「流珠」の母がの元に姿を見せた夜。

それが、「紅流珠」のはじまりだった。