一寸先はことのはじまり 2
「なんと、いうことじゃ…まさか、妾の血がこうも受け継がれてしまうとは」
「紅流珠」としての記憶は、母の悲しげな声と後悔が滲む表情からはじまった。
つい先ほど死んだはずの自分が、何故見知らぬ女性(しかも美人だ)を見上げているのだろう。とりあえず、首を傾げてこれまでの過程の説明でも乞いたいものだと思っただったが、すぐさまそれが不可能であることを知った。喋ろうと開いた口が、まともな言葉を発しなかったためである。「すみません」もしくは「えくすきゅーずみー」とでも言いかけた口から飛びでたのは「おぎゃー」の一言。間抜けすぎるにもほどがある。こんな擬音語で、いったい何の説明を求めろというのだ。ついに自分は言葉まで忘れたか。あまりの不甲斐なさに泣きたくなった。が、すぐに涙は引っ込んだ。視界に現れた小さな紅葉手を見て、自分が赤子であることに気づいたのだ。如何せん、背中を刺されたときにも思ったが、こんなにも自分は鈍かっただろうか。意味がないと解かりつつ、「おぎゃ、おぎゃ」と解読不能な言葉を繰り返しながら、今度こそ本気で泣けそうだ。
が、が涙を流すよりも先に、ひどく暖かな手のひらが優しく額に触れられた。
「すまぬ、流珠よ。秀麗に兆候がなかったゆえ、そなたも大丈夫じゃろうと、安易に考えた妾が馬鹿じゃった」
「あうう」
「男の子であれば見逃されもしよう。じゃが…そなたは」
どうやら、先ほど美人だと思った女性は自分の母親であるらしい。しかもすでに「」ではなく「流珠」という名の新たな生命なのか。一体全体これはどういうことだろう。はダーウィンの進化論でも思い出せないものかとなけなしの知識をフル稼働させた。しかし、結果は矢張り無駄だった。そもそも教科書で紹介された以外まともに読んだ経験がないのだから当然だ。
「…流珠よ」
「うー?」
「そなたは、妾を恨んでも構わぬ。酷い母よと、詰っても構わぬ」
いったい何を言っているんだ、この人は。子のために嘆く母を恨んで詰るような子供がいるとでも言うのか。そんなことはない、と伝えたかった言葉は、哀しくも「流珠」の口では紡げない。必死で手を伸ばし大丈夫だと身振り手振りででも伝えようと試みるが、それも短い手が宙を舞っただけで終わった。
何か外に方法はないものか。哀しげに、形の整った眉を顰める女性を見て、は考える。折角の美人なのだ。笑った顔のほうが良いに決まっている。
「…あー」
どうやら、納得を表す言葉は赤子の口でも言えるらしい。
今ここに、豆電球があったなら、の頭の上でピロリロリンと効果音付で鮮やかに輝いたことだろう。
「」は一人っ子で、親戚にも幼い子供はいなかった。だから、赤子と母親の習性なんて、電車や町中で見かける程度の知識しかない。だが、そんななけなしの経験からもすぐにわかった。赤子が母親を笑わせる。その方法は悩んだ時間が無意味なほどに簡単だった。
「あー」
「…流、珠」
は笑った。そして、「流珠」も笑った。
目一杯に手を伸ばし、大丈夫だと伝わるように精一杯、赤子の顔で笑ってみせた。
そうか。赤子が無駄に笑ったり泣いたりするのは、このためだったのか。実際に赤子を体験して(もちろん「」の赤子時代など覚えてもいない)初めて解かった。赤子の表情は、小さな変化でも周囲の大人を考えさせる。いったい何を思っているのか、何を望んでいるのか。これはすごい効果だ。目の前の美人が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。けれど、すぐ様女性は頬を緩め、「流珠」に向かって微笑んだ。大成功だ。さすが赤子。
「すまぬな、流珠よ。赤子のそなたにまで、心配をかけてしまうとは…妾は母親としてまだまだじゃな」
「うー」
「ふふふ。じゃが、そなたが許してくれるのならば、妾は嬉しいぞ。
穏やかと、呼ぶには不似合いな生やもしれぬ。じゃが、妾と邵可はいつでもそなたの味方じゃ、流珠。ふふ、それに秀麗もじゃな。そなたの姉じゃぞ。ほんに可愛い子じゃ」
それから、「流珠」の母親である美人な女性はごと「流珠」を抱き上げた。
暖かな手に抱かれ、ゆらゆらとゆれる体の心地よさに、はうとうとと瞼が再び重くなる気配を感じた。このまま目を閉じたならば、これは夢と掻き消えるのだろうか。それとも、刺された背中の傷が夢だったのか。
意識が深みに落ちかかる最中、はふと気がつく。秀麗、邵可。どこかで、聞き覚えのある名前。いったい何処だったろう。大概に使えない頭でも、咽の奥まで出掛かっていることくらい、たまにはすぐに引っ張り出してほしいものだ。
ゆらゆらゆれる女性の腕の中、穏やかな眠気がを包む。
まあ、いいか。起きたら、思い出しているかもしれない。
考えることをやめた途端、近くを漂っていたはずの眠気がするりと頭に溶け込んでくる。
薄れていく思考の途中ではもう一度女性に笑おうと試みたが、「流珠」はそれに応えることなく目蓋を閉じた。