一寸先はことのはじまり 1



熱い背中と対照に、指先が触れたコンクリートが妙に冷たかったことをは今でもはっきり思い出せる。
それは遠い昔の出来事のようであったが、の感覚からすればほんの数分前のことでもあった。

当時、「」として二十一世紀の日本で生きていた自分は、公務員の父と専業主婦の母を持つ、極々普通の女子大生だった。
小中高と家から近い公立学校に通い、大学は電車で一時間の所にある中堅の私立の法学部を選んだ。別に裁判官や弁護士になりたかったわけでもなく、何処にでもいるようなモラトリアムを楽しむ大学生活も残り半年。父と同じ地方公務員の枠になんとか引っかかり、卒業後の生活もとりあえずの目処が立ち、残りわずかな自由な時間を卒業論文と趣味に使おうと友人と旅行の計画なども立て始めていた。
人並みの生活水準に別段目立ったところのない素行。これから先も、特になんのドラマもなく、一生が続いていくものだと、「」は当たり前のように思っていた。


背中に深々と包丁を突き刺される瞬間までは。


口惜しくも、その日は彼女が愛してやまない雪がちらついた初冬の頃だった。
公営放送の天気予報によれば残念なことに積もらないらしいが、空から舞い落ちる白い欠片に頬を緩め、今日はいいことがありそうだ、と柄にもなく気分を高揚させていた直後。
ドンという鈍い音と衝撃が、背中に突然降ってきたのだ。
後から思い返してみれば、あれが"背中を刺された衝撃"だったのだろう。だが、その時のは前方不注意の誰かがぶつかったのだろう程度にしか感じなかった。鈍いにもほどがあると言いたい。実際、が背中を刺されたと気づいたのは、周囲がキャーとテレビで拝聴するような甲高い声をあげはじめ、何事かと振り返ったら赤い血のついた包丁を握った後輩の姿を目視したときであった。
目前の少女は、ゼミの後輩で確か自分を慕っていると評判の子ではなかっただろうか、とはふらりと崩れてゆく体と頭で考える。平年よりも寒いでしょうと気象予報士が告げていた冬の空気の中で、彼女は頬を紅潮させ、口を目一杯に開いて何か喋っている。だが、彼女には申し訳ないが、の耳には何も聞こえてはこなかった。
これが死に逝く瞬間というやつなのだろうか。それならば、自分は妙に冷静だな、とは思う。確かに感情の起伏が激しいほうでも、ヒステリックなタイプでもなかったが、さすがに人生最後の瞬間だ、もう少し取り乱したり現世に執着を持っても良いのではないだろうか。もしくは、噂に名高い走馬灯くらい経験させてほしいものだ。
そういえば、高校時代の友人に借りた小説を、まだ五巻までしか読んでいない。中々面白かったから、最後まで読んでおきたかったな。考えてから、自分の執着なんてこの程度かと思わず笑いたくなった。
けれど、どうやら終わりに近づいている自分の体では、笑うという行為すら不可能らしい。硬いコンクリートに倒れた体は妙にふわふわしているし、先ほどまで熱を帯びていたはずの背はすでに痛みすら発しない。
最後まで、惰性で開いていた薄目が重くなりだしたとき、は自分の死を確信した。短い人生だった。特に何もない、傍からみれば平凡な毎日だった。死に方以外は。いや、寧ろ今の世の中、こんな死に方すら平凡なのかもしれない。何の恨みかはしらないが、彼女はおそらくのことを世紀の大悪党のように語るのだろう。出来れば、インタビューを受ける友人達に頼みたい。私のことは「とてもそんな子には見えなかった」と釈明してくれ。死んだあとに生前の罪など関係ないかもしれないが、やっぱり週刊誌で嫌な女として紹介されるのはごめんだ。

周囲の生徒に取り押さえられる、後輩の姿が見える。手のひらから零れた包丁は、上手い具合にコンクリートの上を撥ね、の視線の先に着地した。
鈍い銀色の上に塗られた赤は、「」のものなのだろう。自分の中に、あれほど鮮やかな色が隠れていたとは。最後の最後で、は自分を本気で好きになれた気がした。
親よりも先にいく自分は、賽の河原で石積みか。
そんな荒唐無稽な考えが頭を過ぎった後で、眠るよりも不自然に瞼が視界を黒く染める。

最後に「」が見たものは、灰色のコンクリートに染み込む、鉄錆よりも鮮やかな紅だった。