「おい、見ろよ。あそこ」
「ん、ああ。四年ろ組の昼行灯か」
ふと、聞こえてきた会話に、足を止める。声のした方へと顔を向ければ、紺色の忍装束を身に纏った先輩が二人、並んでいた。見覚えもないし名前もわからないけれど、服の色から五年生の誰かなのだろうと当たりを付ける。
先輩二人の声音は、職員室に向かう途中だっただけの、通りすがりのぼくが気になってしまうくらい、嘲りというか、蔑みというか、とにかく、お世辞にも良いとは言い難い感情を含んでいるように聞こえた。何か、あったのかな。廊下に立ち止ったまま、先輩たちが指を差す方へと、ぼくも視線を動かす。先輩たちから少し離れた場所に立つ、太い樹の枝の上。青々と茂る新緑に紛れて、紫色の衣が目に映った。
「あんなところで読書とは、いい気なもんだな。さすが、学年首席様は違うねえ」
「言ってやるなよ。どうせ、先生たちの温情だろ。三年間も学級委員長を務めていて、成績が平凡なんて笑えないからない」
「はは、違いねーや。普段はどこにいるのかもわからない学級委員長様でも、学園長先生のお気に入りだもんなー」
「ついでに、鉢屋と尾浜の、な。まったく、取り入る相手を巧く選んだもんだよ」
耳に届く会話から察するに、どうやら五年生の先輩たちは、あの樹の上にいる四年生の先輩のことを好いていないらしい。しかも、四年生の先輩は、学年首席を取った学級委員長のようだ。
ぼくとおんなじだ。
いくつか得た情報から、まず頭に浮かんだのは、そのことだった。まだ一度も活動らしいことはしていないけれど、ぼくと同じ、学級委員長。いったい、どんな人なんだろう。じいっと紫の忍装束を見詰め続けていると、不意に枝葉に隠れた先輩の身体が動いた。それから、ぼくの立つ位置からは音も聞こえないくらい静かに地面に降り立つと、本を片手にすたすたと五年生の先輩の方へと進んでいく。あれ、これってもしかして、一触即発の場面?少しだけドキドキしながら次の展開を眺めていたら、昼行灯と呼ばれていた先輩は、何事もなかったかのように、五年の先輩に「こんにちは」と歩みを止めずに会釈すると、さらにまっすぐに歩いてくる。そう、ぼくの方に向かって。
「こんにちは」
「こ、こんにちはっ」
ぼくの目の前でピタリと足を止めた先輩は、僅かに頬だけを緩めて、じっとこちらを見上げてくる。近くでみる先輩は、女性と見紛うぐらいに小柄で、柔らかい顔立ちをしていた。中世的な雰囲気と華奢な印象が相まって、四年生という年齢の割に、少し幼くもみえる。けれど、ぼくを見るその瞳はとても穏やかで、落ち着いていて、なんだか不思議と安心できるものだった。
「黒木庄左ヱ門、って君で合ってる?」
「は、はい!」
「そっか。よかった、やっぱりここで待っていて正解だった。学級委員長なら、先生に学級日誌を届けに来るだろうって、踏んでいたんだよね」
「…ぼくを待っていらっしゃったんですか?」
尋ねてから、なんて馬鹿な質問をしているんだろうと後悔した。先輩は、ぼくの名前を名指しして、「待っていて正解だった」と仰った。であれば、ぼくを待っていたことは尋ねるまでもなく明白だ。
頭の中でそんな後悔を捲し立てていたぼくを知ってか知らずか、先輩は穏やかな表情を変えることなく、うん、と小さく頷いた。
「そうだよ、黒木庄左ヱ門を待っていたんだ」
「それは、もしや学級委員長委員会の関係でしょうか?」
「お、察しがいいね。あーでもさっき先輩たちが私のことを話していたから、情報は耳に届いていたんだよね。それなら当然か」
「え…聞えて、いたんですか?」
さっきから、ぼくの口からは疑問符ばかりだ。けれど、先輩は嫌な顔一つすることなく、先ほどとまったく変わらない動作で首を縦に振る。
すでにこの場を去った五年生たちの会話は、ぼくの耳にも聞こえていたくらいなのだから、確かに先輩の耳に届いていたとしても可笑しな話ではない。だけど、ならば先輩にだって、あの方たちが抱いていた感情が伝わっていたはずだ。それなのに、
「うん、聞こえていたよ。それで、きっと黒木は私に、『じゃあ、どうしてあんな普通に挨拶していたんですか?』って聞きたいんだよね」
「!!」
「そりゃ、話の流れから察するよ、それくらい。なんたって、私も君と同じ、学級委員長、だからね」
そう言って、にやりと口端を上げて笑う先輩の表情は、さっきまでよりもずっと生き生きとしているようで。それがぼくには、なぜかぼくを認めてもらえたように思えて、言葉が消えた。
「挨拶くらい、するよ。だって、先輩が言っていたことに嘘はないもの」
「そう、なんですか?」
「えーと、私が聞いてた範囲だけど、私が四年ろ組の昼行灯と呼ばれていて、三年間ずっと学級委員長を務めていて、学年主席を取ったことがあって、それまでは平凡な成績だった、ってところは事実だよ。でも、あとの部分は私では事実かそうでないのか、判別できないかな。というか、自分で『私は学園長先生のお気に入りなんです』っていうのは、痛々しいしねぇ」
そもそも、他人の心情ほど察しにくい部分はないからね。
風が吹けば消えてしまいそうなくらいに微かな表情で笑って、先輩はそれが当然のことのように口にする。
先輩の言葉を咀嚼して、自分の中に溶かしていけばいくほど、わからないことが増えていく。だって、おかしい。おかしいよ。確かに「嘘」はないのかもしれない。先輩の言うとおり、あの五年生たちの言葉には事実がほとんどで、事実と判別できないものでも、嘘と断言するには判断材料が足りない、そんな内容だったのだろう。
けれど、だからそれで良いと、笑えるものなんだろうか。
文字に起こして伝わったわけじゃない。声の抑揚や口調から、言葉として人は文字の真意を知ることができる。文字の裏側に籠められた、感情とか、想いとか。たとえばそれは、ぼくが五年生の先輩の言葉の端々から、嫉妬や、蔑みといった感情を受け取ったように。先輩だって、受け取ったはずなんだ。
「……嘘が無ければ、良いんですか?」
「ふふふっ、黒木はさすが学級委員長だねぇ」
「それは、一体どういう意味でしょうか?」
「言葉のままだよ。君は今、私のことを心配しているよね。そうやって、自分のことじゃなくて他人のことを気にしてしまうのは、学級委員長体質ってやつだよ。うん、今年の一年生はやっぱり面白いね」
「先輩っ!」
「ああ、ごめんごめん。はぐらかすつもりじゃないよ。まあ、嘘が無ければいいってわけでもないけど、私は自分が嘘吐きだから、事実を言われてもあんまり腹が立たないんだ。だから、黒木もそんなに気にすることないよ。その分、君の組の子たちのことを、心配してあげるといいよ」
くしゃりと、頭の上で音がした。同時に額から後頭部にかけて伝わる温もり。先輩の手の平が、ぼくの頭を小さく前後に撫でていた。
先輩の言葉がすべて、ぼくの中で納得できたわけではない。先輩は良いというし、喧嘩にならないにこしたことはないけれど、根拠のない罵詈雑言で同じ学級委員長の先輩が蔑まれることは、ぼくにとっては望ましいことではないように思えた。
もちろん、先輩の言葉もわかるんだ。出逢ったばかりの先輩ではなくて、同じ教室で机を並べて学び高める同輩たちを大切にしなさい、と。そう諭す先輩の言葉は、確かにぼくの中にすとんと落ち付く。
けれど、それを理由に先輩を心配しないなんて、そんなの、やっぱり、おかしい。納得できない。そんな感情を隠すこともできないぼくを、それでもやっぱり嬉しそうに微笑って見つめる先輩をみて、少なくとも、そのときのぼくは、思った。