( 今なお、鮮やかに思い返すことのできるあの日を、あなたは覚えているでしょうか )



「ジュンコー!ジュンコ、どこだーい!」

歩き続けていた足を止めて、周囲を見渡す。草むら、木のかげ、建物の下。すでに思いつく場所という場所を見て回ったつもりだけれど、未だに彼女の痕跡すら見つけられない現実に、ぼくは肩を落とした。

今日も今日とて、ジュンコはぼくが授業を受けている合間にどこかに姿をくらませてしまった。
ジュンコはとても賢い子だから、気儘に散歩に出かけてしまうのは良くあることだ。気が済めば自分で戻っても来るし、散歩中に誰かに迷惑をかけることもほとんどない。けれど、ぼくや生物委員会の先輩たち以外にとって、ジュンコが散歩する、ただそれだけのことが、どうしても許せないらしい。
だから、もしそんな連中にジュンコが見つかってしまったら、と考えると、喉の奥がすうっと冷たくなる。ああ、いやだ。こんなこと、想像したくもない。

「ジュンコ……」
「探し人、かな?」
「っ!!」

条件反射というものは恐ろしいもので、突然聞こえた声に、ぼくは懐に手を差し込む。それから、周囲を見渡して声の主を探すけれど、周囲にはジュンコの痕跡がないのと同じく、人の姿もない。もちろん、人がいる気配さえも。

「あー上だよ。こっちこっち」

先ほどよりもはっきりとした声は、言葉の内容を肯定するように上の方から聞こえてきた。少しだけ視線を上げれば、すぐ傍の木の上に、紫色の忍び装束が見えた。茂る葉に隠れて、容姿までは見えないけれど、ひとつ上の先輩なのだということは、服の色からすぐにわかった。だからぼくは、身に纏っていた警戒心を解くことなく、一歩左足を後ろに引いた。

「探し人かな?」
「あ、あなたには関係ありません」
「まあまあ、そんなに警戒しない。少年は一年生でしょう。私からすれば後輩のひとりだ。手が必要なら手伝うよ」
「必要ありません」
「ざっくりだねえ。うーん、今年の一年生とうちの学年は仲が悪いっていうのは、本当だったんだなあ」

なんだこの人、知っていて声をかけたのか。
先輩の言うとおり、ぼくたち一年生と一つ上の二年生はあまり仲が良くない。通常であれば、初めてできた後輩に二年生はいろいろと面倒を見てくれるのが通年らしいが、今の二年生には個性豊かすぎる先輩が数名いて、彼らにいろんな被害を受けたという一年生が多発した結果、学年全体の雰囲気が険悪化した、らしい。まあ、学年が近い所為でいろいろ張り合ってしまう、というのも原因のひとつなんだろう。
正直なところ、ぼくにとっては先輩と仲が良かろうが、悪かろうがどうでもよかった。ぼくにとって大事なのは、その人がぼくたちを受け入れてくれるか、否定するか、ということだけだから。
だけど、先輩たちにとってはそういう訳にもいかないらしい。僕のジュンコや大山兄弟が散歩しているのを見るだけで、彼らの中には生意気な一年がまた自分たちに突っかかってきている、と思う人もいるらしい。そう、藤内たちが言っていた。

「うちの同輩たちが迷惑をかけているみたいだね。学級委員長のひとりとして、謝るよ。ごめんね」
「別に、あなたに謝ってもらっても」
「それもそうだ。まあ、彼らに悪気はないから、温かい目で流してもらえると嬉しいな。悪気がないから悪いって意見もあるけどね」
「……先輩は、何が言いたいんですか?」

本音を言えば、一刻も早く話を打ち切って、ジュンコを探しに行きたかった。けれど、ここで背を向けた途端、どんないたずらをされるか、わかったものではない。
それに、少しだけ興味が引かれたのも事実だった。先輩は、先ほどからとても穏やかな声音で、淡々と言葉を紡いでいた。ぼくに対する怒りとか、学年間の仲の悪さとか、そんなものは微塵も感じられないような、無感情な声。
そこには、ぼく自身に対する嫌悪感も一切なくて、少しだけ、新鮮だった。

「何がって、さっきから言ってるじゃないか。探し人なら、手伝うよ」
「……変な人、ですね。それに、ぼくは人を探している訳ではありません」
「あれ、そうだったの?……ああ、そっか。じゃあ、探し"生き物"だね」
「!!」
「具体的な特徴を教えて貰えれば、手伝えると思うよ…………あ、ごめん。もしかして――――」



( ぼくは決して、忘れません。あなたと出逢った、あの瞬間を )



「ああ、そうだった。あの時は、伊賀崎に申し訳なかったね」
「いいえ。ぼくは嬉しかったので」

顔を上げると、視線のすぐ先には先輩の顔がある。それから、並ぶように首をもたげた、ジュンコの姿。あの日と同じように、先輩の首が第二の定位置とでも言わんばかりにジュンコはチロチロと舌を動かす。ああ、ジュンコは相変わらず綺麗だ。

「ジュンコさんがあんまり優しかったものだから、時間を忘れてしまっていたんだよね。よくよく考えれば、ジュンコさんに友達がいるのは当たり前のことなのに、そんなことも失念してしまって、伊賀崎を不安にさせてしまったね」
「でも、おかげで先輩に逢えました」
「伊賀崎は私をよっぽど甘やかしたいみたいだね。そう言っていただけると助かります」

くすくすと小さく笑った先輩は、左手でジュンコの頭を撫でながら、器用に右手だけで綴本の頁をめくる。風が吹いて揺れる草の音に混じって聞こえる、紙の擦れる音が心地よく、ぼくはもう一度目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、いつだって先輩の姿だ。ぼくの記憶の中の先輩は、いつも首にジュンコを巻きつけて、ぼくの方を振り返って手を伸ばしている。ぼくは、ふたりに少しでも早く追い付きたくて、必死に手を伸ばすけれど、いつだってその指に触れる直前で、先輩の姿は霧散する。
今もまた、消えてしまった先輩の面影を確かめるように、慌てて目を開ければ、変わらずそこには先輩がいた。頭の下には、青く繁った草の感触。少しだけ冷たい温度に息がつまって、手を伸ばす。指の先が触れた忍び装束は、先輩の体温を纏って、少しだけ温かかった。

「ん。伊賀崎、どうかした?」
「……先輩は、どうしてジュンコたちばかり、甘やかすんですか?」
「それは心外だなあ。私は誰かを特別に甘やかしているつもりはないよ。……ああ、でも喜八郎にも言われたっけ」
「綾部先輩…ですか?」
「そうそう。私は後輩に甘いらしい。そんなつもりはないんだけれどねえ」
「でも、先輩はジュンコやきみこに甘いです」

絶対に、と念を押すように告げれば、困ったように先輩は少しだけ眉を下げる。
先輩は自覚していないというけれど、先輩がジュンコたちに甘いのは、本当のことだ。だって、ぼくは知っている。先輩が無条件で定期的に逢いに行くのは、生物委員会が飼育している生き物たちだけなんだって、ことを。
先輩は誰かを嫌いなんて、そんな態度は見せない。けれど、自分から先輩が距離を縮める相手は、ほとんどいない。ぼくが知ってる限りでは、四年生の三人と先輩の幼馴染らしい食満先輩くらいだ。
だけど先輩は、三日に一度は必ず飼育小屋に足を運んでいることを、ぼくは知ってる。餌をあげるわけでもない、手を伸ばすわけでもないけれど。ただ、飼育小屋の前にしゃがんで、生き物たちを眺めている。そんな時間があることを、きっとぼくだけが知っている。

一度だけ、先輩に「どうしてそんなに生き物を大切にしてくれるんですか」と聞いたことがあった。だって先輩は、ぼくのジュンコやきみこだけじゃなくて、学園のすべての生き物を愛しているように見えたから。
先輩は、ぼくの問いに少しだけ驚いたように肩をすくめてから答えてくれた。

――――生き物には、嘘を吐く意味がないからね。

だからぼくは、いつだって不安なんだ。
いつか先輩がぼくらを置いて、ジュンコたちとどこかへ消えてしまうんじゃないかって。この言葉という嘘と悪意に溢れた世界に愛想を尽かして、いなくなってしまうんじゃないかって。

「先輩は、もっとぼくらも甘やかすべきです」
「なんだ、伊賀崎。私に甘やかしてほしいの?」
「だってジュンコばかり、ずるいじゃないですか」
「物好きだね。伊賀崎にはもう、面倒見の良い先輩がいるじゃない」

面倒見の良い先輩、と言われて頭に浮かんだのは、委員会で委員長代理を務めていらっしゃる竹谷先輩だ。確かに竹谷先輩は、ぼくにも生き物たちにも甘い、責任感の強い良い先輩だ。一度飼った生き物は最後まで面倒を見る、という信念は素直に感嘆できるものだと思う。

「でも……竹谷先輩は、先輩ではありません」
「うわーすごい口説き文句だね。駄目だぞー伊賀崎。そういう台詞は、任務の時に取っておきなさい」

だけど、ありがとね。
そう笑って、先輩は綴本を持っていない方の手で、ぼくの頭を撫でてくれた。たったそれだけのことで、こんなにも心が熱を持つなんて。ただ、今だけは先輩を独り占めできていることが嬉しくて、ぼくはもう一度、そっと瞼を伏せた。


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