( 君は僕のすべてを理解してくれるわけではない。だけど、 )



ザクザク、ザクザク。
ザクザク、ザクザク、ザクザク。

一定の調子で続くのは、僕の手の中にある踏子ちゃんが土を削っていく音。耳に心地いいリズムと、手の平にじんわりと広がる感触が気持ちよくて、癖になる。今日は踏子ちゃんの機嫌も土の具合も良いようで、どんどんと深くなっていく穴に、僕は楽しくて仕方がなかった。
みんなは穴を掘る僕の行動をおかしなもののように見るけれど、穴掘りの楽しさがわからないなんて、みんなのほうこそおかしいと思う。こんなに面白いこと、きっと他にはない。僕はこの学園に来て、落とし穴と蛸壷の作り方を身につけられたことが、二番目によかったことだと思っているくらいだ。
首の高さほどになった穴の中から視線をあげると、地面の高さがちょうど僕の目の高さと同じくらいになっていた。ぐるりとその場で周囲を見渡す。その途中、視界に映ったひとりの姿に、僕はそれだけで満たされた気がして、もう一度踏子ちゃんに足をかけた。

ザクザク、ザクザク、ザクザク。
ザクザク、ザクザク。

気が付けば、穴は僕の背よりも深くなっていた。周囲は焦げ茶に染まっていて、慣れ親しんだ土の匂いに包まれていると、この狭い空間がまるで僕の居場所のように感じられる。もう、顔をあげても地面は見えない。見上げると、普段よりもうんと狭くなった青い空に雲が過ぎる。
ぼんやり、土を掘りだす手を止めていると、空の隅の方から雲みたいにふわふわとした声が降ってきた。

「喜八郎、岩でもあった?」

声は確かに僕の名前を読んだけれど、他の誰かのように僕がいる穴を覗き込んでくることはない。。口の中だけで、声の主の名前を呼ぶ。
は気が付くと、僕が穴を掘っている傍で音も気配もなく、本を読んでいる。僕に声をかけるわけでもなく、穴掘りを止めるわけでもなく。手は届かないけれど、声の届く距離では、僕が穴を掘る音を聞いているのだと言う。

「喜八郎?」
「ここからみる雲は、に似ているね」
「え、ああ、そうなんだ。それで手を止めていたんだね。でも、雲に似てるなんて言われたの、初めてだなぁ」
「そうなの?」
「うん。昼行灯とか、昼の月とかは言われるけどね」

新学期が始まって、僕たちはひとつ学年が上がって四年生になった。三つ上だった六年生たちが卒業して、立花先輩たち五年生が六年生になったり、新しい一年生たちが入学したり、僕たちが上級生と呼ばれるようになったり。変わったことはたくさんあるけれど、僕がこうして放課後、落とし穴を掘ることは変わらない。そして、その傍らに、時々が現れることも。
だから、四年になっても変わらずろ組の学級委員長をしているくせに、が「ろ組の昼行灯」って呼ばれていることも、この穴の底から見上げた、区切られた空を横切る雲に似ていることも、おんなじ。二年のときも、三年のときも、そう。だから、そんながこれから先も、変わることなんてないんだって、知ってる。

「月なら僕もわかるよ。は月にも似てるから」
「一応言っておくけど、昼の月、ってたぶん褒められてないからね、私」
「でもは似てるよ。だって、月は結局変わらないから」
「喜八郎が言うと、なんだか良い意味に聞こえるから不思議だねえ。とりあえず、ありがと」

そう言って、は小さく零すように笑った。声だけだってわかる。だって、それだけの時間を、の傍で過ごしてきたから。
はずっと変わらない。いつだって、こうして僕が穴を掘る傍らにいるようで、本当は違うこと。は、僕のことをマイペースだと、僕がの傍に気儘にやって来ているんだと言うけれど、本当はそうじゃない。そんなんじゃ、ないんだってことも、変わらない。


「んー?」
「手」

踏子ちゃんを持っていない方の手を、丸いだけの空へと伸ばす。雲なんて、ずいぶん前に過ぎ去っていて、残ったのは何もない青だけだった。どれだけ、穴の底から掴もうとしたって、届かない。どうしてなんだろう、本当に嫌になるくらいにそっくりだ。


「ちょっと待ってね。はい、どーぞ」

。だから僕は、何度だって何度だってその名前を呼び続ける。そうしてやっと、から僕の方へと、手を伸ばしてくれるから。
ひょっこりと青い丸を遮って現れた色の白い手の平を握る。僕よりも一回り小さなの手は、何度もできては潰れた肉刺のせいで硬くなっていた。少しだけ低い体温が、身体を動かして熱った僕の温度を奪っていく。それが妙に心地よくて、僕はさっきよりもぎゅっと、の手の平を握った。

「まったく、喜八郎は時々妙に甘えたになるよね。そのくらいの穴、いつもひとりで這い出てるのに」
「……怒った?」
「え、なんで?今の話の中に、喜八郎を怒る理由がないけど」
「僕がを雲みたい、って言ったから」
「ああ、それか。むしろ、初めて言われたから新鮮だったよ」
「ほんとうに?」
「うん。それに、喜八郎がそう思って口にしたってことは、喜八郎の中ではちゃんと理由があったんでしょ?だったら、別に嫌じゃあないよ」

の小さい手の平を借りて穴から這い出た僕は、その手を掴んだまま、の肩口に額を寄せた。は絶対に僕を拒否しない。穴を掘ったあとの土で汚れた僕だって、周囲から何を考えているのか分からないと言われる僕だって、僕の伸ばす手を払うことをしないから、僕は何度だってに触れる。
近い近い位置で聞くの声が、僕は嫌いじゃない。それから、から微かに香る薬草の匂いも。僕よりも少し低い体温も、色の違う両瞳も、全部、全部。好きだなんて口にしたら、きっとは困ったように笑うから言わないけれど、嫌いじゃないならいいよね、たぶん。そう思って、僕はに言った。僕も、嫌いじゃないよ。そうしたら、はきょとんと錆色の瞳をまん丸くして、三拍あとで、笑い損ねたみたいに頬を弛めた。

「ありがとう、喜八郎。でも、そういう言葉は私じゃなくて、委員会の後輩にでも言ってあげてよ。この間、浦風が落ち込んでいたよ。綾部先輩に嫌われているのかもしれない、って」
「………どうして藤内がとそんな話をしているの」
「ん?どうしてって、たまたま図書室帰りに浦風に逢ったんだよ。浦風も初めて委員会の後輩ができて、気を張っていたんだろうね。眼があった途端、泣きつかれたのは初めてだったなあ。って、あれ?喜八郎?なんだか力、強くなってない?」

の手を握る指に、思わず力がこもった訳は、僕にもよくわからなかった。でも、籠めずにはいられなかった。
だって、が一部の後輩にとても慕われていることは知ってる。作法委員会の後輩である藤内だって、何かにつけてはに心配ごとを相談しているし、図書委員の能勢なんかはの前だと落ち着かないのかいつもそわそわしているし。極めつけは生物委員の伊賀崎だ。ペットの毒虫が逃げ出すたび、竹谷先輩だけじゃなくて、なぜかにまで捜索を頼みにやってくる。委員会の先輩でもないに頼みにくる伊賀崎も伊賀崎だけど、それを断らないだ。だから、なんだか無性に心の臓の奥あたりが、ざわざわと騒いで落ち着かないから、僕はの腕を頑なに握った。僕の中の大事ななにかが、欠けてしまわないように。

「……は、藤内たちに甘すぎると思う」
「いやいや、そんなことないよ。甘すぎるっていうのは、留先輩みたいな人のことでしょ」
も甘いよ」
「えーそうかなぁ。まあ、私はこれまで委員会で後輩がいなかったからね。他の委員会が羨ましくて、気がつくと手を出してしまっているのかもしれないね。でも、喜八郎だって後輩は可愛いでしょう?この間、図書室でみた一年生たちも、いい子だったよ」
「…………面白い、とは思う」

思い浮かべた委員会の一年に、可愛い、という形容詞が当てはまる気がしなくて、なんとか思いついた言葉を口にしたら、は「そっか」と嬉しそうに言った。
それから、まるで僕の言葉がなにかの正解だったみたいに、は僕が握っていない方の手で僕の頭をそっと撫でる。髪を梳くみたいに触れる手のひらからは、やっぱり少しだけ、鼻をつんと擽る薬の香りがした。



( それでもやっぱり、僕が僕であるためには、きっと、君が必要 )

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