「待って、雲雀!」
ようやく雲雀の後姿に追いついたときには、グラウンドから随分と離れてしまっていた。
すぐさま追いかけなかったことが原因だとはわかっているけれど、それにしても雲雀の足は速すぎるような気がする。若干息切れした呼吸を整えようと走る速度を緩めるだけで、雲雀の背中は遠くなっていく。私の早足と雲雀の徒歩が同じ速度?なにこれ。コンパスの差にしてもおかしいでしょ。
「雲雀ッ」
名前を呼んでいるのに足を止める素振りすら見せない雲雀に、少しだけムッとする。せめて振り返るくらい、してくれたっていいんじゃないかな。けれど、そう思ったのはほんの数秒で、あの"雲雀恭弥"が誰かの頼みを聞くなんて滅多にないことなんだろうから、仕方がないのかもしれない。しかも私の場合は、すでに何度かきいてもらっちゃってるし(救急車とか、さっきとか)気まぐれはそう何度も続かない。だからこそ、気まぐれっていうんだろう。
だからと言って、このまま無視され続けたら追いかけた意味がないし。緩めた速度をまた少しあげ雲雀との距離を一気に詰めて、学ランから伸びた彼の細い左手首を右手で掴む。
「ッ!」
「ひば…って、なんでそんなに驚くの?」
ただ、手を掴んだだけなのに、雲雀の反応は信じられないくらいに大きかった。
脊髄が反射したみたいに瞬間的に振り返ると、雲雀は私の顔と掴んだ手首を交互に見遣る。何度かそれを繰り返したあとで、雲雀が視線を止めたのは繋がった手の方だった。私の右手と雲雀の左手。それをじっと見つめたまま、雲雀が言う。
「どうして君、ここにいるの」
雲雀の声は冷たくも鋭くも痛くもなくて、ただただ平淡に流れるメロディが懐かしい記憶をくすぐった。
前から思ってたけれど、やっぱり雲雀の喋り方はのそれによく似てる。顔自体は全然違うけれど、あんまり動かない表情筋もそっくりだし、飾らない言葉遣いだってそうだ。
それだけが理由ではないけれど、どうしたって弛んでしまう頬が止められなくて小さく私は笑ってしまった。どうしてだろう。今になって本当に、雲雀が同い年に見えるなんて。
「なんで笑ってるの」
「だって、雲雀が面白いから。あのね、ここにいるのは、雲雀を追いかけて来たからだよ」
「…君の考えていることは本当に訳がわからない。君はさっきの騒ぎを止めて、彼らの怪我の手当てをしたかったんじゃなかったの」
訝しげに眉を顰める雲雀に、返す言葉は少しだけ詰まった。
怪我の手当てをしたかった、って言われると語弊はありそうだけど、確かに騒ぎが止まったらツナたちの手当てをするつもりだった。
けれど、それは私にしかできないことじゃないから。
そう思ったから、私は雲雀を追いかけたんだ。
「怪我の手当ては、実行委員と先生が中心になって他の子たちがやってくれてる」
「だから君はやらないの?」
「そうじゃないけど…それより先に、雲雀にお礼が言いたかったから」
「…別に君に礼を言われるようなことをしたつもりはないよ」
「してくれたよ。乱闘を止めてくれたし…それに、B・C連合の総大将にもなってくれた」
「君たちのためじゃない」
「知ってるよ。それでも、嬉しいと思ったらお礼は言うものでしょ」
繋がった手。伝わってくる低い体温。握った手のひらに、微かに雲雀の脈が感じられた。
雲雀は私たちのためじゃなかったというけれど、誰を据えるか悩んでいたB・C連合の総大将を買って出てくれたことに間違いはなくて、乱闘を止めてくれたことだって事実。
だから、私がお礼を言うことは、私にとっては当たり前のことなんだよ。たとえ雲雀が、そう思っていなくたって。
途切れ途切れにその気持ち伝えると、雲雀は尚も斜め下を向いたまま、ポツリと零した。
「…B組の総大将を咬み殺したのが僕でも、君は同じことをいうのかい?」
たとえば、ここで私が眼を見開いて「うそ」とか口にしていたら、雲雀はどう思ったんだろう。
普通ならびっくりして、雲雀のことを責めたりするのが当たり前な反応なのかもしれない。なんで押切くんをって詰め寄って、お礼とは真逆の言葉を口にするのが普通なのかもしれない。きっと、夏の日に雲雀に逢っていなかったら、押切くんの元を訪れていなかったら、私だってそうしていた。
でも、今は無理だよ。心の中だけで、淋しく呟く。
「変わらないよ」
だって、気付いていたから。押切くんを見たときから、わかっていたから。
「雲雀と、初めて逢ったときの高校生の傷と、今日の押切くんの傷、おんなじだったから。もしかしたら、って最初から思ってた。だから、なにも変わることなんてない」
「知っていて、君は僕を追いかけてきたの?」
「さっきも言ったけど、それでも雲雀がしてくれたことに変わりはないでしょ」
今、私はきちんと笑えているのかな。本当は、自分の表情さえわからなくなっていた。
あのね、雲雀。ほんとうは、お礼を言うのと同じくらい、私はあなたに謝らなくちゃいけなかった。だって、押切くんに怪我をさせたのは確かに雲雀かもしれないけれど、知っていたくせに、止められなかったのは他の誰でもない ―――――― 私だから。
知っていて、変えたくて、変えられたと思って安心して、変わらなかった。
誰かを傷つけることが罪になるのなら、それを見ていながら止めないことだってきっと罪で。それなら、知っていたのに止めなかった私は、もっと責められなければならなくて。
卑怯だって自覚しているくせに、押切くんに謝ることすら出来なかった私は、誰よりもきたない。
そんな私に、誰かを責める権利なんて、あるわけない。
「…君は、本当に変だね」
飾らない雲雀の言葉は、どこか楽しそうに聴こえた。
雲雀の視線はいまだ繋がった手から動かない。それが今は唯一の救いで、俯くように私も右手と左手の交点に視線を落とした。これならきっと、私が泣きそうになったって雲雀には見えないから。
「最近よく言われるんだよね、それ。私は普通にしているつもりなんだけど」
「君の普通が変なんだよ」
「辛辣ね」
「僕は嘘が嫌いだ」
「あははっ、雲雀らしいよ」
あまりに雲雀にぴったり過ぎる発言に溢れた笑いのおかげか、沈みかけた心がいとも簡単に浮上していて、それがまた可笑しくてふき出してしまう。
自分の汚さが見えているくせに、些細なことで都合よく忘れて。そういえば、私はこちらに来てから、こんなことばっかり繰り返している気がするな。大人なのに、こんなに感情の起伏が激しくていいのかな、と密かに心配になってしまった。
握ったままだった雲雀の左手首がさっきよりも少しだけ温かくなっている。どうやら随分と長く、雲雀を拘束してしまっていたらしい。
…今更だけど、今の私って結構すごいことをしてしまっているんじゃないだろうか。だって、あの"雲雀恭弥"の手首を掴んで引き止めているなんて。認識したとたん、頭から足元に向かってサーっと血の気が移動していく。気が付けば、反射的に握った手を離していた。
「…なに、その態度」
「いや、ちょっと自分の無謀っぷりに気付いちゃったっていうか…」
「君が無謀なのは今に始まったことじゃないよ」
「それは、そうかもしれないけど…そ、それより、ありがとう、雲雀っ」
「別にいいよ。どうせ、貸してるだけだから」
「…その、貸しってなに?」
「さあ、どうしようかな。…思いついたら、伝えるよ」
「伝えるって言われても…私、連絡の付くもの持ってないよ?家の電話くらいしか」
「…携帯、持ってないの?」
嘘でしょ、と訝しげな表情で雲雀は語るけれど、持っていないものは持っていない。そもそも保護者が傍にいない以上、保証人がいないから契約しようがないし。携帯のある生活に慣れた身としては若干の不便は感じるけれど、だからといって生活ができないわけでもないから、気にしていなかったけれど…
「持ったほうがいいのかな、携帯」
「僕に聞かないでよ。…まあ、君に呼び出しをかける時に、毎回放送を使うようになるだけだから、僕としてはどちらでもいいよ」
「…幼馴染のお母さんに聞いてみます」
すでに呼び出しがかかること決定だとか、携帯を買ったとしても雲雀に番号を伝えること前提だとか、色々と突っ込みたいところもあったけれど、ひとまずこれ以上放送で呼び出しを喰らうのだけは嫌だ。
そう思って、近いうちに必ず携帯を購入することを雲雀に伝えたら、彼は「勝手にしたら」と素っ気無く学ランを翻した。
応接室に帰っちゃうのかな。右手にまだ残るかすかな温度を感じながら黒い背中を眺める。しばらくすると、単調な雲雀の声が耳に届いてきた。
「買ったら、必ず僕に伝えに来なよ。こなかったらどうなるのか…君ならわかるよね」
「………了解です」
その二日後。
リボーンくんの計らいで無事購入することができた携帯の電話帳には、当然のように「雲雀恭弥」の名前が並んでいる。