何度も何度も顔を洗ってからグラウンドに戻ると、そこは先ほどまでとはまったく違う空気で覆われていた。女子生徒だけになった観客席に、ほぼ乱闘になりつつある男子生徒の群れ。その両端に立つ棒の上には、片や黒い制服をなびかせた少年が乗っていて、もう片方はすでに空っぽになっている。…あの、人の上をぴょんぴょん跳ねてるのがツナなのかな。
「あっ、さん!押切くんの具合はどうだった?」
「意識は戻ったから、もう大丈夫だと思うよ。先生にも伝えてきたから、このあとで病院に行くんじゃないかな」
「そっか…」
「棒倒しの方は…なんだか凄いことになってるみたいだね」
「そ、そうなの!あのあと、A組対B・C連合になることが決まって、しかもこっちの総大将がヒバリさんにいつのまにかなってて!それに、A組の総大将の子がさらにすごくて……あっ!!」
かなり興奮した様子で話す田中さんの声が悲鳴に似た音に変わった次の瞬間、あたりは水を打ったように静まり返ってしまった。ツナが、騎馬から落ちてしまったんだ。状況をみなくたってわかる。そして、これから始まってしまうことだって、私は知っている。
「…止めなくちゃ」
「え、えっ!?さん!どこ行くの!?」
「乱闘、止めないとツナがぼろぼろになっちゃう」
足を一歩踏み出した直後、グラウンドをさっきよりも大きな爆音が埋めつくす。コミックで見たとおり、ツナを中心にした乱闘が、始まってしまったんだ。
「止めないとって…あんなところに行ったら、さんが怪我しちゃうよ!」
「だけど、誰かが止めないと」
「私たちじゃ無理だよ!!」
必死に私を止めてくれる田中さんの言葉に、思わず声が出なくなる。…確かに、私が行ったところでなにができるわけじゃない。私みたいな女子生徒がひとりで突撃したところで、埋もれてしまうのが関の山。そんなこと、ちょっと考えれば誰にだってわかることだ。
でも、だからってただ、見ているだけでいいの?
自分の中で問いかけて、浮かんだ答えは当然ノー。考えなきゃ、何か手段を。こうしている間にも、怪我人はどんどん増えていってるんだから。
「――――― そうだ」
「、さん?」
「私、風紀委員の人に頼んでくる!」
「え…っ、」
今度は田中さんが静止する間もなく駆け出していた。
探し人は、予想していた通りの場所 ―― 本部のテント脇 ―― にいた。特徴的な髪型に、体育祭の日でも黒で統一された彼らの姿はとても目立つ。その中のひとり、一番先頭に立った草壁くんの元に近づくと、彼は意外なものでも見るように大きく眼を見開いてこちらを向いた。
「お前は…先日の転入生か」
「草壁くん、お願い。この乱闘を止めてください」
ざわり、草壁くんの後ろに並んでいた風紀委員の数人が囁きだす。私はそんなに妙なことを言っているんだろうか。そう、不安になってしまうくらい、彼らの反応は大げさだった。
「並盛の、風紀を守ることが風紀委員の仕事で役目なんでしょう?だったら、この乱闘を止めて。…悔しいけど、私ひとりじゃなにもできない。だから…」
「…悪いが、ヒバリの指示なしに動くわけにはいかない」
「だったら今すぐ雲雀に頼んでくればいいの?雲雀が止めろと言ったら、すぐにでも止めてくれるの?」
「転入生、今なんと、」
その先に続くはずだった台詞がなんだったのかは、私にはわからなかった。草壁くんは唐突に口を噤むと、ぴしりと体を凍らせて動かなくなってしまったからだ。
彼の硬直が遷ったように、他の風紀委員の人たちまで眼を丸くして固まっている。彼らの視線は一様にグラウンドに向いていた。わけもわからず、未だに乱闘が続いているのであろうそちらを振り返った私がそこに見たのは、
「雲雀…」
乱闘を続けたままのグラウンドの喧騒を背に、傷ひとつな綺麗な姿で雲雀はそこにいた。
この人、どうやってあの集団の中から抜け出てきたんだろう。そんな、尋ねるまでもない疑問が頭を過ぎる。相手は雲雀なんだから、喧嘩する一般中学生の隙間をすり抜けてくることくらい、容易いことなんだろう。…たぶん、咬み殺してきたわけじゃないはずだ(倒れた人で道ができていないし)
雲雀は一瞬だけ私と視線を交わすと、何事もなかったかのように歩き出す。彼の足が向かったのは私たちのすぐ隣にあるテント。雲雀が近づいてきたことで声にならない悲鳴をあげつつ逃げかけた(けれど逃げ損ねた)本部の学生を捕まえて、雲雀はマイクを受け取った。
マイク?雲雀にマイクって、なんだかあまり似合わないような。
そんなことを考えたのも束の間、校庭中に雲雀の静かな、けれどよく通る澄んだ声が響き渡った。
「全員、騒ぐな」
ピタリ。
そんな表現が、ぴったりだった。というか、今のこの状況をそれ以外の単語で表すことができるだろうか。雲雀の一言で、時計が止まってしまったみたい。まるで、リモコンの一時停止ボタンでも押してしまったような世界が、そこには広がっていた。
すごい…小さく口の中で呟いていると、マイクを放り投げた雲雀がいつの間にか私の方へと目線を動かしていた。さっきは一瞬で過ぎ去ってしまったスッとした瞳が、揺れることなくこちらを見ている。
ああ、やっぱり綺麗だ。男の子なのに、思わず見惚れてしまいそうになる綺麗な顔。
雲雀は、微かにも表情を変えることなく、小さく言った。
「これで、君は満足?」
「あ…」
「貸し、ひとつだよ」
貸し、ひとつ。雲雀の短い言葉が、頭に残る。
すぐそばに立っている草壁くんも、固まったままびっくりしてる。当然だ。だって、貸しってことは、私の頼みを聞いて止めてくれたってことだ。あの、孤高の人が、私みたいなただの生徒のために。こんな考え、おこがましいのかな。やっぱりこれも、ただの気紛れ?
私の拙い頭では処理しきれない情報に、ぐるぐる世界まで回っているみたい。気が付いたときにはもう雲雀は目の前にいなくて、先生や体育祭実行委員の「手の空いてる女子は救護を手伝ってー」という声が耳にうるさいくらいに届いていた。
手伝わなきゃ。それが正しい行動だってわかってるはずなのに、体がうまく動かない。
転入生、と震えた声で草壁くんが私を呼んだ。彼は、無言でグラウンドとは逆の方向を指差した。
それから、私はと言えば。