chiazzato







白い部屋には、嗅ぎなれた消毒液のかおりに混じってかすかな煙草のにおいが漂っていた。
ああ、そういえばこの部屋の今の主は、シャマル先生だったっけ。このあいだ来たときにはまだいなかったけれど、体育祭の当日にはすでに勤務していたはずだ。保健室で煙草を吸うなんて、あまり褒められたものではないけれど、あの人には確かによく似合っている。

保健室の真っ白な布団では、傷だらけの押切くんが眠っている。
普段は「目つきが悪い」とよくクラスメイトにからかわれる細い眼は固く閉じられていて、眉間に皺まで寄ってしまっているものだから余計に表情はおっかなく見えてしまっていた。眠っているときくらい、肩の力を抜いたっていいのに。そう思って額に手を伸ばし、眉と眉の間の縦じわに人差し指を当てる。
小さい頃に信じてたおまじない唱えたら、彼の重荷も減るのかな。いたいのいたいのとんでけ。心で小さく呟くと同時に、押切くんの低い声が聞こえてきた。

…か?」
「うん、そうだよ。体の具合…どう?」

意識を戻した押切くんは、ここに私がいることに驚くように目を丸くしていた。何事もないように尋ねれば、返ってきたのは戸惑ったような相槌の言葉。
本当は、体の具合がよくないことくらい、聞かなくたってわかっている。保健室に運ばれたばかりの押切くんは頭から足まで傷塗れで、本当なら身体を動かすだけで痛みが走るくらいなはずだ。主な怪我は、どこかで見たような打撲と骨折。シャマル先生がいないので正確なところはわからないけれど、何週間か入院も余儀なくされてしまうだろう。

「もう、体育祭は終わったのか」
「ううん、今はお昼休みだよ」
「そうか」

押切くんの表情を、私はなんて表したらいいんだろう。
私の頭の中にある言葉では表現できない複雑な感情を示して彼は、枕に頭を埋めたまま真っ直ぐに天井を見つめている。
もしかしたら、私がここにいることは彼を傷つけることしかしていないのかもしれない。ついさっきまでは他のB組の生徒もいたけれど、みんな午後の棒倒しがどうなるのかを気にして、校庭に戻ってしまっているのだ。正確には、私がついているから、と言ってここを引き受けたのだけれど。特に田中さんと佐藤さん、それに岡田くんたちは押切くんが言い逃げした昨日の現場に居合わせていたから、むしろ積極的に私ひとりを残そうとしてくれたし。彼らはきっと、私の心境を察してくれたんだろう。なんて、そんなふうに考えてしまうのは、私の都合のいい思い込みなのかな。

「体育祭は、C組の総大将も倒れちゃって、午後の棒倒しをどうするか話し合いが行われてるところ」
「高田が、どうかしたのか」
「…ちょっとした、事故、かな」

他愛のない話。いったい、私たちはなにをしているんだろう。なにを、待っているんだろう。
私たちの声以外の音がしない狭い部屋では、グラウンドから届く喧騒も遠く静かで、痛いくらいに沈黙ばかりが自己主張を強めていた。押切くんは天井を向いたまま、かすかに唇を開きかけてまた閉じる。まるで言葉を捜して、彷徨っているようだ。でも、彼には言わなければならないことなんてない。
本当は言わなければならないことがあるのに、逃げているのは私だ。

「あの、ね。押切くん」

声が不恰好なまでに震えているのがわかる。ほんとに格好悪い。もっと、背筋を伸ばして真っ直ぐに、彼に向き合えたならよかったのに。

「本当は、あの時すぐ、答えなきゃいけなかったことはわかってる。でも、私にはそれができなかった。ごめんなさい。いくら、責められたって仕方がないことだけど…本当にごめんなさい」

私はこんなにも弱虫で臆病で、誰かに勝ってるところなんてひとつだってない。厄介ごとからは逃げたがるし、一番大事な瞬間には足が動かなくて、いつだって後悔ばかりを繰り返してる。

「いまさら、って罵られる覚悟はしてる。でも、伝えさせて下さい」

だけどあなたは、こんな私のことを好きだと言ってくれたんだよね。


「今の私は、あなたに応えることができません」


膝の上で握った手のひらの中で、爪が突き刺さる痛みが走った。けれど、少しでも力を籠めていないと、押切くんから目を逸らしてしまいそうだった。
きっと彼が私に向けていた感情は、中学生らしい淡い想いだったに違いない。もしかしたら「なにマジになってんの」と失笑されてしまうような対応をしているのかもしれない。
もし、そうだったとしても、それで良い。天井を見上げたままの押切くんを見つめたまま、心の底からそう思った。
だって、彼の気持ちの重さを量るなんてこと、私にはできない。だから絶対軽い気持ちだった、と思っていても、それが億にひとつの確率で間違っていることだってあるかもしれない。もしも間違っていたら、その時に適当な返事をしてしまっていたら、きっと私は後悔する。彼に本気で応えなかったことを、延々と後悔するに決まってる。
それなら、最初から「バカだ」って笑われる方が何倍もマシだ。

「俺は、最初から闘う場を間違っていた、ということか」

ぽつり、空気に溶けてしまいそうなくらい小さな呟きが、押切くんの口から零れた。
それから、ゆっくりと押切くんは瞳だけを動かして、私の方を向いてくれた。やっと捉えることのできた彼の視線は、罵られたって責められたって仕方がないと思っていたのに、信じられないくらいに柔らかくて。そこには怒りも、苛立ちも、嘆きすらも見つけられなくて。ああ、どこまで彼は優しいんだろう。泣く権利なんてない、私の方が泣きたくなってしまった。

「ごめん、なさい」
「どうしてが謝る。むしろ、お前がそこまで悩んでくれていることに気付くことさえできなかった、俺がお前に謝罪するべきだ」
「そんなことない。私が、あの時に伝えるべきだったの」

油断すれば今にも零れてしまいそうになる泪を止めるために、頭の中で何度も唱える。私は二十四歳の社会人で、恋人だっている大人で ――――― この世界の人間でもない。だから、ここで苦しいとか、悔しいとか思うこと自体がおこがましいんだって、何度も。
少しでも笑えるように、笑顔で彼に向き合えるように、奥歯を噛み締めて無理やりに口の端を持ち上げた。押切くんは、少しだけ困ったように眼を細めて、微笑った。

「ひとつだけ、聞いてもいいか」
「…うん」
「"今は"、ということは、これから先はまだわからないと受け取ってもいいのか?」

押切くんの言葉は思いがけないものだった。けれど考えたのは一拍で、私はすぐに首を縦に振った。
"今"と応えるしかなかったのは私で、これから先の答えを出すのは""。だから、先のことは私にだってわからない。
彼の望みと私の答え、含んだ意味は違ったかもしれないけれど結論は同じ頷きに、押切くんは「そうか」と安心したように細い息を吐く。

「どうやら、本当に俺は闘う相手も場所も、間違えていたようだな」
「…押切くん?」
「いや、なんでもない。…、俺はこうしてお前から答えを聞くことができただけで、満足だ。その上、可能性がゼロではないのなら、俺はこれからもお前を想うことができる。それ以上の、答えはないさ」
「押切くんは…つよいね」
ほどではないさ。それより、もうすぐ午後の競技も始まるだろう。戻ったほうがいい」
「……うん」

別に「出ていけ」と言われているわけでもないし、彼の口調は相変わらず優しいのに、立ち上がらずにはいられなかった。床を擦る嫌な音を鳴らすパイプ椅子から離れ、押切くんのベッドから離れようと、周囲を囲う白いカーテンに手を伸ばす。
瞬間、背中を穏やかで緩やかな声が押した。


。俺は今も、お前のことが好きだ」


振り返るわけにはいかず、返事の代わりにできたことと言えばレールを滑るカーテンの音を響かせることだけで、私は早足で保健室を飛び出していた。
グラウンドとは逆の廊下をしばらく歩く。不意に足を止めて振り返ってみれば、まるでヘンゼルが落とした白い小石のような小さな水溜りが、窓から差し込む光を反射してきらきらと光っていた。
泪が止まらないのはどうして?
この世界の人はどうして、こんなに優しすぎるんだろう。
止めどなく頬をつたい続ける滴を手の甲で拭ってみたけれど、何度繰り返してみたって、顎先から床へと落ちる水が減ることはなかった。
優しすぎる世界の中で、私だけが、うそみたいに滲んでいた。



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※染み付いた。押切くん夢ではありません…多分。