体育祭の季節です。
ここ、並盛中では体育祭は超ビッグイベントらしく、準備期間中から学校の雰囲気ががらりと変わって、私はかなり戸惑っています。
並盛中では縦割りでA・B・C組に分かれてチームをつくるのですが、組同士の対抗戦は(田中さん曰く)とても白熱するんだそうです。
以上、おぼろげな記憶ではありますが、京子ちゃん風に語ってみました。
「あ、田中さん。そこからは色変わるみたい」
「えっ、ほんと?えっと…ペンキはー」
「ちょっと待ってね。佐藤さん、赤いペンキ余ってる?」
「そこのダンボールに入ってるの、もう開いてるから使ってー!ちょっと、岡田!あんた、サボってんじゃないわよ!!」
「…りょーかーい」
そういうわけで、現在進行形で私たちは体育祭の準備に追われています。ちなみに私たち二年生の担当はB組の顔となる看板の作成で、大きな板に延々とペンキで色を塗り続けていた。ペンキなんて使うの、何年ぶりだろう。鼻の奥にツンと突き刺さる独特のシンナーのかおりに、なんて表現していいのかわからない妙な気持ちになる。青春って、こんなにおいなのかな。
「ッ!!」
「はい?」
教えてもらったダンボールから封の開いた赤いペンキを見つけたとき、突然大きな声で名前を呼ばれる。
振り返ると、同じクラスの押切くんが背をぴんと伸ばして立っていた。直立不動、そんな言葉がなんとも似合いそうだ。
細くて釣りあがった目に、真っ黒な髪を逆立てて固めている押切くんは一見するとすごく怖い人のようにも見える。けれど実際に話してみると全然そんなことはなくて、むしろ真面目で面倒見の良いとても優しい男の子だった。転入したての私をよく気遣ってくれて、応接室に呼びだされた次の日、心配して最初に話しかけてきてくれたのも彼だったし。しかも、空手部では主将を務めていて、後輩からの信頼も厚いらしい。
そんな彼は先輩にも随分と可愛がられているらしく、この体育祭でB組の総大将を務めることがすでに決まっていた。最初は先輩を憚って遠慮していたそうだが、やはり人がいいのか、結局押し切られてしまったのだそうだ。
…長々と押切くんのことを語って、私は結局何が言いたいのかといえば。
空手部主将でB組の総大将、しかも非常に面倒見のよい押切くんは準備の際もいろんなところにひっぱりだこで大忙し。
イコール、私に話しかけている暇なんて、本来ならばあるはずがないのである。
「どうしたの、押切くん」
「あ、明日の体育祭で、俺が総大将を務めることになったことは知っているか」
「うん、知ってるよ。二年生なのに大変だからできるだけサポートしよう、ってB組のみんなで決めたから」
「では、体育祭のクライマックスに…棒倒しという競技があることも聞いているか?」
「もちろん。体育祭の華なんでしょう。それに、棒倒しでは総大将の押切くんが上に乗るんだって聞いたよ。一番危険な役回りだって話だけど…あんまり無理はしないでね」
「あ、ああ」
見上げる押切くんは、直立不動なのにどこか挙動不審だった。もしかして、転入生の私が体育祭で困っていないかを気にして声をかけてくれたのだろうか。押切くんだったらそれもありそうだな。
最後の言葉のあとでピタリと黙ってしまった押切くんは、その細い瞳でじっと私のことを見下ろしていた。ふと、視界の片隅に押切くんの固く握られた拳が映る。よくよく見てみれば、押切くんの体は僅かにではあったけれど震えていた。いったい、どうしたっていうんだろう。不安になって、声をかけようとした瞬間。意を決したような彼の声が、二年B組の教室に響き渡った。
「明日の体育祭の棒倒しで、俺が最後まで残ることができたら ――――― 俺と付き合ってくれ!!!」
途端、シンと静まりかえった教室には、言い逃げよろしく走り去っていた押切くんの足音の余韻だけが、奇妙なくらいに残っていた。
「…はぁ」
気が付けば、口からは無意識のうちに深い溜め息が零れていた。
体育祭の準備も無事に終わり、放課後になってやってきた図書室の一番奥。夕方になると西日が少しだけ差し込むこの席が、私の指定席だ。何列も並ぶ本棚が塀になっていて、カウンターからも入り口からも見えずらいし、人の出入りがあまり気にならないところが気に入っている。図書室に来るたびに、空いていればいつもここに座っていた。
普段なら、ここに座って気になる本を選んで広げるだけで、時間も忘れるくらいに集中できるのに。今日に限っては、どうしたって先ほどの押切くんの言葉ばかりが頭の中に浮かんでしまう。
おれとつきあってくれ。あれって、別に公園まで、とかそういうことじゃないんだよね。男の子と女の子で、彼氏と彼女になってほしいって、押切くんは言っていたんだよね。
冗談だって、笑ってすませてしまうことは簡単だったけれど、あのときに見た押切くんの震えた手が、そんなことをしちゃいけないんだと私に告げる。押切くんは、真剣だった。嘘とか、冗談とか、罰ゲームとかじゃない、彼自身のまっすぐな想いで私の前に立っていた。
正直なところ、私は誰かに告白された経験が一度としてないので、こういうときにどうしたらいいのかがサッパリわからないのだ。と付き合ってはいたけれど、どちらかがはっきりと告白の言葉を口にしたわけじゃなくて、気が付いたら付き合っていた、という微妙な関係だったし。そういえば、「好き」とか「愛してる」って言われた記憶もない。…あれ?私たちって本当に付き合ってたのかな。
とは言っても、中学時代からそんな関係だった私とは、まったくといっていいほど色恋沙汰からは遠ざかっていて。本当に、わからないのだ。あんな青春小説みたいな告白をされたら、どんなふうに答えたらいいのか。恋愛が、こんなに厄介なものだとは、思わなかった。
数学みたいに正しいひとつの答えがあるわけじゃないってことはわかっているけど、それでも私は藁にも縋るような思いで『恋愛心理学』なんて言葉がタイトルに含まれた本を必死になって読んでいる。「人は誰でも"好き"と言ってくれた相手が自分から離れていくことを嫌います。」つまりそれって、告白されたら負けってこと?ぐるぐると思考回路が焼き切れるくらいにフル稼働しているのがわかる。仕舞いには、キィと軋んだ音まで聞こえてきた。ああ、本当に恋愛って難しい。みんな、こんな難解で厄介で答えのみえない摩訶不思議な敵と、毎日闘っているんだろうか。
「…中学生って、こんなに大変だったんだ」
「何が大変なの」
「何ってそりゃ…ひ、雲雀!?」
いつのまにか正面の空席に現われた雲雀の姿に、図書室であることも忘れて声が飛び出る。もしかして、さっきの軋んだ音って、私の頭の中で鳴ったんじゃなくて雲雀が椅子に座った音?ていうか、雲雀恭弥が図書室にいるなんて…いや、別に似合わないわけじゃないけど。雲雀が図書室で静かに本を読んでいたりしたら、かなり絵になる光景になりそうだ。
「相変わらず変な顔してるんだね」
「変な…顔?私、そんなに変な顔してた?」
「鏡、見たことないの?」
そう言って、雲雀はなぜか楽しそうに小さく笑った。
さらりと流してしまうにはちょっと失礼すぎる言葉のようにも聞こえたけれど、実際問題悩んでいた間の自分の顔なんて知るわけもない。…もしかしたら、本当にすごい顔してるのかな。ちょっと次からは気にしてみようかな。そんなことを考えていたら、頬杖をついた雲雀が平淡な口調で話しはじめた。
「君、随分と噂になってるみたいだね」
「…もしかして、押切くんとのこと?雲雀が知ってるなんて、ちょっと意外」
「並中のことで僕が知らないことはないよ」
「でも、人の色恋沙汰には興味ないでしょ?」
「…まあね」
言葉の端にどこか不満のような感情を見せてはいたけれど、今日の雲雀はとても穏やかでこれまで感じてきた危険はまったく感じられなかった。
もちろん、雲雀という存在が常に刃を持った人間であることは知っている。綺麗で優しそうで穏やかに見えても、いつそれを翻してヤマアラシのように針を剥き出しにするかはわからない。だから安心なんてしちゃいけなんだってことは、ちゃんとわかっているのだ。こんなふうに普通に話せていたって、いつ何があるかはわからない。そう、わかっているはずなのに。
「助けてあげようか?」
わかっているはずなのに、彼の声音はどうにも温かくて緩やかで。内容だって、普通の同級生同士の会話と、なにひとつだってかわらなくて。だから、なんだろう。怖いって思っているはずなのに、危険だって知っているはずなのに。この人から、全力で遠ざかったりできないのは。
「助けるって…」
「困ってるんでしょ?だったら、助けてあげないこともないよ」
「…それって、押切くんを咬み殺す、ってことじゃないよね」
「違うよ」
「じゃあ、」
「君が、風紀委員に入ればいい」
雲雀の言葉を理解するのには、少しばかり時間がかかった。
きみがふうきいいんにはいればいい。
ああ、そっか。確かに風紀の人間に好んで近づこう、って考える人は少なくなるよね。そうしたら、押切くんも私のことを好きになったこと、忘れてくれるのかな。
雲雀が、どうしてそんな提案をしてくれているのかはわからなかった。単なる気まぐれだったのかもしれない。というか、それ以外に可能性なんてあるだろうか。
たとえ気まぐれだったとしても、これはかなり貴重なお誘いだろう。とりあえず、コミックを見ていた限りでは女子の風紀委員は見当たらなかったし。
きみがふうきいいんにはいればいい。
頬杖をついたまま、雲雀は私の返事を待っている。
私を、助けてくれると言った雲雀。風紀委員になればいいと言った雲雀。
深い夜の色を宿した瞳が、真っ直ぐこちらに向かっている。その視線が、不意に記憶の中の押切くんのものと重なった。全然違うはずなのに、どこかで繋がってしまう印象に、心の奥が潰されたみたいに悲鳴をあげた。
私は、こんな真剣な、真っ直ぐな目をした人を相手に、逃げようとしていたんだ。
「…だめだよ、雲雀」
「何がだめなの」
「多分私は、そんなふうにして逃げたら、だめなんだよ」
風紀委員になれば、きっと押切くんは今日のことなんてなかったことにしてくれるだろう。それは、風紀委員になる、ということを差し引いても私にとってはとても楽な選択肢だ。
だけど、それじゃあきっといけない。その方法は、押切くんの必死な気持ちを、棄ててしまうことになる。忙しい合間をぬって、拳をきつく握って、体を震わせて私の前に立っていた押切くん。彼の気持ちを踏みにじる権利なんて私にはない。人の心って、きっと燃えるゴミみたいにあっさりと、棄ててしまっていいものじゃないはずだ。
恋愛なんてまともに経験したこともないし、本を読んでみたって何のことかさっぱりだけど。それでも、わかるよ。真剣な気持ちには、真剣に答えないといけないんだってこと。たとえそれが彼にとって望まない答えだったとしても、逃げたりなんかしちゃいけないんだってこと。それが、私が彼にできる、唯一のことだから。
「恋愛ってよくわからないけど、あんな真剣な押切くんを相手に私が楽な道を選ぶわけにはいかないよ」
「なにそれ」
「私なりの真剣さ、かな。別に、風紀委員になりたくないわけじゃないよ。雲雀の心遣いはすごく嬉しい。…せっかく提案してくれたのに、ごめんなさい」
「…別に、謝られることじゃないよ」
私がたどり着いた答えに、雲雀は眉を顰めてぷいと横を向いてしまった。あ、怒らせちゃったかな。彼のせっかくの親切を無下にしてしまったのだ。怒られたって仕方がないのかもしれないな。不思議なことに、そう思った私の心は妙に落ち着いていた。もしかして、夏の日に括った腹は、未だに有効なんだろうか。
「でも、嬉しかったよ。ありがとう、雲雀」
もう怒らせてしまっているんだったら、いまさらなにを言ったってかわらないよね。だったら彼のトンファーが飛んでくる前に言いたいことは言い切ってしまおうと思ったら、口から零れていたのは感謝の言葉。それは素直に、雲雀の気まぐれが嬉しかったから溢れ出たものだった。
そんな私の気持ちが雲雀に通じるわけもなく、雲雀はなにか珍しいものでもみるように目を少し大きくしただけで、返事は返ってこなかった。
けれど、それから私が図書室を去るまでの決して短くはない時間、雲雀が正面の席から立ち上がることはなく。
理由はわからないけれど、どうやらまた私は雲雀に見逃してもらえたみたいだなあ、とスーパーの夕方特売に向かう帰り道、彼のことばかりを考えてしまっていた。